不断寺は、鎌倉幕府第4代執権・北条経時が鎌倉・笹目に創建した寺を前身に持つ、横須賀・長井にある浄土宗の寺院です。
不断寺の裏山には、北条経時の墓(供養塔)と伝わる宝篋印塔が建っています。
「不断寺」という寺名は12ある阿弥陀仏の別名の一つ「不断光仏」から付けられたと言い、北条経時の墓にも刻まれています。
現在の不断寺は、路線バスなどが走る新道より1本内陸寄りの旧道沿いにありますが、かつては山門前の道が長井のメインストリートでした。
漁港の整備などによって海岸線からは少し遠ざかりましたが、今も境内を吹く風は潮風で、本堂前の立派なソテツとともに、海辺の寺院らしさが漂う古刹です。
山号 | 三王山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1246年(寛元4年) ※長井への移転は1592年(文禄元年) |
開山 | 教誉 ※長井へ移転した僧侶 |
開基 | 北条経時 |
北条経時は浄土宗の関東総本山である光明寺も開いていることから、歴史的に不断寺は、単なる本山と末寺という関係以上に、光明寺とのつながりが深かったようです。
それが垣間見えることの一つにお十夜法要があります。「十夜法要」は浄土宗の秋の恒例行事で、光明寺が発祥とされています。不断寺のお十夜法要は三浦半島の浄土宗の寺院のなかでも、とくに盛大に開かれているお十夜の一つとして知られています。また、浄土宗の宗教行事ということにとどまらず、近隣の住民にとって、長井の秋の風物詩として欠かせないイベントになっています。
INDEX
光明寺から分けてもらった不断寺の2日間のお十夜法要
「十夜法要」とは、文字通り、十日十夜に渡って念仏をとなえる法要のことです。
現在はどこも短縮されていますが、不断寺のお十夜法要は、横須賀・津久井の法蔵院と三浦・三崎の光念寺をあわせた3寺で、光明寺の10日間の法要からそれぞれ2日間ずつ分けてもらったものだと言います。
不断寺のお十夜法要は毎年10月25日・26日の2日間執り行われています。三浦半島の浄土宗寺院の十夜法要は、各寺院ごとに日程が固定されていて、日程が重ならないように執り行われています。
光明寺と不断寺の2つの北条経時の墓
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、北条経時は、1246年(寛元4年)閏4月に死没し、その翌日には佐々目の山麓に葬られたことが記録されています。
「佐々目」とは、現在の鎌倉市笹目町に相当するエリアと考えられ、北条経時の屋敷があったとされる場所です。不断寺の前身の寺院は、この北条経時の屋敷の中にあったと言います。
現在、北条経時の墓と言えば、不断寺と同様に北条経時が開いた、光明寺裏山の御廟所に建つ宝篋印塔を指すのが一般的です。光明寺は鎌倉の材木座にありますが、創建時は佐助ヶ谷にあり、寺名も蓮華寺と言いました。佐々目と佐助ヶ谷は隣り合ったエリアにあります。
蓮華寺/光明寺が佐助ヶ谷から材木座に移ったタイミングで、北条経時の墓も佐々目から材木座に移したと考えるのが自然ですが、それをはっきりと裏付けるような証拠はなさそうです。
光明寺の北条経時の墓には、経時の戒名として「蓮華寺殿安楽」と刻まれています。「吾妻鏡」の経時が亡くなった際の記事には、戒名(法名)として「安楽」とだけ書かれています。
不断寺の院号は「安楽院」であり、もし、鎌倉・笹目(佐々目)時代から変わっていないようであれば、北条経時の戒名は不断寺の院号から付けられたという解釈もできます(もちろん、その逆も考えられます)。
もし、この仮定が正しかった場合、北条経時が葬られたのは笹目(佐々目)にあった不断寺の前身の寺院であり、現在、長井の不断寺の裏山に建つ宝篋印塔こそが北条経時の正統の墓と言えますが、こちらも、それを裏付ける証拠があるわけではありません。
(不断寺の宝篋印塔も、光明寺の宝篋印塔も、北条経時が埋葬された時代のものではなく、後年、建立されたものです。そのような意味では、どちらとも供養塔と言うこともできます)
現在の不断寺境内
鎌倉幕府滅亡後、北条経時の屋敷内にあった不断寺の前身寺院は荒廃し、安土桃山時代の1592年(文禄元年)、教誉によって長井の地に移されました。
1923年(大正12年)の関東大震災では本堂が全壊しましたが、1927(昭和2年)、東京・両国の回向院の弁瑞によって再建されています。
不断寺の境内はそれほど広いわけではありませんが、本堂の両側にはびっしりとお墓が建ち並び、鎌倉・笹目での創建の歴史を受け継ぎながらも、長井の地にしっかり根付いている寺院であることが分かります。