岩船地蔵堂には、源頼朝と北条政子の最初の子である大姫の守り本尊と伝わる地蔵尊が祀られています。
諸説ありますが、源頼朝と北条政子の次女・乙姫(三幡)がこの近くに葬られ、墳墓堂が建立されたため、大姫ではなく、乙姫の守り本尊である可能性もあります。その場合、乙姫の墓が岩船地蔵堂の前身であったのかもしれません。
なお、大姫の墓とも伝わる祠は、木曽義高の首塚(木曽義高の墓)がある大船の常楽寺の裏山にもありますが、大姫と義高の悲恋の逸話をもとに後年作られた創作である可能性が高いです。
幼少の大姫は、源頼朝と同じ河内源氏の木曽義仲(源義仲)の嫡男・義高と婚約しましたが、その結末は悲劇的なものでした。
木曽義高は、源頼朝と対立していた木曽義仲が和睦のために鎌倉へ送った人質でした。義仲が北陸の倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破り上洛する直前の、1183年(寿永2年)春のことです。
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心に深い傷を負ったまま終えた 大姫の短い生涯
しかし、その後も頼朝と連携はせずに、朝廷との交渉や平家討伐の戦いを続ける義仲は次第に行き詰まり、頼朝の討伐の対象になってしまいます。
最終的に木曽義仲は、源頼朝が送った頼朝の弟・範頼、義経の軍勢に宇治川の戦い、粟津の戦いで立てつづけて敗れ、自らも敗死しました。
鎌倉で、許嫁となった木曽義高と仲睦まじく暮らしていた大姫でしたが、義仲追討によって義高の命も危ないことを知ると、義高を逃がそうとします。しかし義高はすぐに捕まり、源頼朝が送った討手によって討ち取られてしまいました。大姫が6歳、義高が11歳で出会ってから、まだ1年しか経過していない、1184年(寿永3年)春のことです。
ともに暮らしたのはわずか1年でしたが、幼少の大姫にとっては、おそらく兄妹のような感覚であったであろう義高を身内に殺されたことは、深い深い傷として残ることになります。
憔悴しきった大姫は病床に伏せ、生涯に渡って回復することはなかったと言います。源頼朝は大姫を後鳥羽天皇の妃にして入内させようとしますが、うまくいかず、1197年(建久8年)、大姫は20歳で死去しました。
鎌倉時代の歴史書「北条九代記」(成立は江戸時代)には、大姫ではなく乙姫が亀ヶ谷に葬られ、北条氏(江馬殿)をはじめ、三浦氏、畠山氏、梶原氏など多くの御家人たちによって墳墓堂が造られ、仏事がいとなまれたことが記されています。(堂の説明文には、上記の事柄が「北条九代記」に大姫のこととして書かれていると記されています。しかし、「北条九代記」を読むと、頼朝の娘(姫君)の病死を報じる項に、木曽義高のことに触れつつ、年代的にも年齢的にも、その他の関係する人物的にも、明らかに大姫ではなく乙姫の死について記されています。参照している「北条九代記」の版によって内容が異なっている可能性もあり、真相は不明です)
岩船地蔵堂のお参り
普段、岩船地蔵堂の扉は閉ざされていますが、扉のすき間から地蔵尊を拝観させていただくことが可能です。堂の説明文によると、扉のすき間からお参りできるのは前立像の木造地蔵尊で、堂奥には本仏石造地蔵尊が安置されています。
中世の交通の要衝に建つ 岩船地蔵堂
岩船地蔵堂はその、中世から鎌倉市中と山ノ内(北鎌倉)を結んでいた「鎌倉七口」の一つ・亀ヶ谷坂(亀ヶ谷坂切通し)の、鎌倉市中側の入口に建っています。
現在ではすぐ横をJR横須賀線が走っていて、歴史を感じるレンガ造の扇ヶ谷ガード(岩船ガード)をくぐると、今小路から続く、かつての鎌倉街道・上道が走っています。鎌倉街道・上道は、中世には武蔵大路と呼ばれていて、「鎌倉七口」の一つ・仮粧坂(化粧坂切通し)から藤沢を抜けて武蔵国府が置かれていた府中方面に続く街道でした。
岩船地蔵堂はこのような、中世から近世まで重要な街道として機能していた大通りが交わる、繁華街であったであろう場所の一角に建っています。
岩船地蔵堂は1690年(元禄3年)に再建され、現在のお堂は2001年に新造されたもので、近隣にある海蔵寺によって管理されています。