神武寺みろくやぐら(弥勒やぐら)は、鎌倉周辺に千から数千基現存するとされるやぐら(主に中世に造られた横穴式の墳墓または供養の場)の中で、供養されている人物が特定できる唯一のやぐらです。
このみろくやぐらで供養されているのは、鶴岡八幡宮の舞楽師・中原光氏で、やぐら内部に安置されている石造弥勒菩薩坐像の背後に、中原光氏の名や、鎌倉時代後期の1290年(正応3年)に73歳で没したことなどが刻まれています(やぐら内部は立入禁止のため、石像の背後を見ることはできません)。
中原光氏は、代々楽人の家柄で、鎌倉時代前期に京から鎌倉に下った中原氏の子孫とみられていて、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にもその活躍が記録されています。
また、1266年(文永3年)、鶴岡八幡宮に木造弁才天坐像(国指定重要文化財)を奉納した人物としても知られていて、当時の鶴岡八幡宮のなかでも有力者の一人だったことがうかがい知れます。
「みろくやぐら」の名前の由来となった弥勒菩薩の「弥勒(みろく)」とは、「慈しみ」を意味する言葉です。やぐら内部には地蔵菩薩が祀られるケースがありますが、弥勒菩薩が祀られているものはめずらしいです。
弥勒菩薩は、釈迦の入滅後、5億7600万年または56億7000万年後に現われる「未来仏」とされていて、仏が不在となるその間、世界を救済するのが地蔵菩薩だとされています。
神武寺みろくやぐら群の造営時期
神武寺みろくやぐらは、神武寺の薬師堂や楼門南方の崖の中腹に築かれた墓地の一角に残されています。周辺には、みろくやぐらの他にも10穴前後のやぐら群が確認できます。
これらの神武寺みろくやぐら群は、昭和中期に調査が行われていて、逗子市によって調査報告書にまとめられています。
この調査報告書によると、みろくやぐらは、内部に後年の改変の跡が見られるものの、やぐらの形状の特徴から、石造弥勒菩薩坐像建立と同時期の鎌倉期のものであることが確認されています。みろくやぐら周辺のやぐらは、その半数ほどは鎌倉期のものとみられていますが、残りは江戸期に造営されたもののようです。
また、みろくやぐら周辺のやぐらには、第二次世界大戦中に軍用地となり旧日本海軍によって接収されたこんぴら山やぐら群より石塔等が移されたと伝えられていることと、近世以降に神武寺の檀家の墓地として再利用されているものもあり、造営当初の状態を確認することは難しいと言えます。
鎌倉・逗子で見られるその他の「やぐら」
逗子のやぐら群と言えばまんだら堂やぐら群(季節曜日限定公開)が有名です。
まんだら堂やぐら群は鎌倉・逗子でも最大規模のやぐら群のため、これほど大規模なものはなかなか見られませんが、以下のような場所でも、それぞれ特徴的なやぐらを見ることができます。