寿福寺(壽福寺)は、源頼朝の死の翌年に、北条政子が頼朝の菩提を弔うために開いた禅宗寺院です。山号になっている「亀谷山」は、寺の背後にある源氏山の別名です。
鎌倉五山第三位に列せられ、最盛期には10を超える塔頭が建ち並ぶ大寺院でした。
境内は一般には公開されておらず、参拝できるのは、山門から中門までの参道と、本殿(仏殿)の背後にある墓地のみになります。(2021年3月現在、墓地へは境内の左側をまわり込んで入ることができます。例年、境内はお正月の1週間程度とゴールデンウイークに特別公開されます)
山号 | 亀谷山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | 鎌倉五山第三位 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建 | 1200年(正治2年) |
開山 | 明菴栄西 |
開基 | 北条政子 |
寿福寺の裏手にある墓地には、北条政子と鎌倉幕府第三代将軍・源実朝の墓(供養塔)と伝わる五輪塔が祀られているやぐらがあります。そのまわりにもたくさんの中世のものと思われるやぐらが残されています。
INDEX
鎌倉最古の禅宗寺院
寿福寺は、北条政子によって招かれた明菴栄西が開山となって、1200年(正治2年)に建立されました。
栄西は日本の臨済宗の開祖とされ、南宋で修業をした後、1195年(建久6年)、福岡に聖福寺を建立しました。これが、日本における最初の禅宗専門寺院とされています。
栄西は最初天台宗を学び、南宋からの帰国後は禅とともに真言も学んでいて、寿福寺も創建当初は禅だけでなく天台・真言との三宗兼学として開かれました。
寿福寺より50年ほど後の1253年(建長5年)に創建された建長寺のほうが臨済宗としての格が高いとみなされているのは、建長寺が、禅のみを学んだ南宋からの渡来僧である蘭渓道隆によって創建された、「純粋禅」などとも称される教えを説く、鎌倉で最初の禅宗専門の寺院だったことが理由にあげられます。
栄西が寿福寺の後に開いた京都の建仁寺も創建当初は禅・天台・真言の三宗兼学で、禅は他の宗派を否定するものではないというスタンスと、とくに京都では強い勢力を持っていた天台・真言の宗派に配慮したことが背景にあるようです。
また、栄西は、南宋(現在の中国の一部)での修行から帰国する際、茶の苗を持ち帰り、日本に喫茶の習慣を広めたことでも知られています。寿福寺に伝わる「喫茶養生記」は、栄西が宋で学んだ茶の効用についてまとめた書で、国の重要文化財に指定されています。同様の書は、源実朝にも献上されています。
源実朝と北条政子の墓
本殿(仏殿)の裏手には、平地に現代の墓地があり、そのまわりの山の斜面には中世のやぐら(平地が少ない鎌倉特有の、横穴式の墓、または供養の場)が数多く残っています。
これらの中には、源頼朝の妻・北条政子と鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の墓と伝わる五輪塔が安置されたやぐらもあります。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、源実朝と北条政子は、死没するとそれぞれ「勝長寿院」(廃寺)に葬られたと書かれています。そのため、寿福寺の五輪塔は、実際に埋葬した墓ではなく供養塔であるか、勝長寿院から移されたものである可能性があります。
また、大町の安養院にも、北条政子の墓と伝わる宝篋印塔が残されています。
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寿福寺は源氏ゆかりの地
寿福寺のある亀ヶ谷(扇ヶ谷)と呼ばれる谷戸は源頼朝の父・義朝の館があった場所で、それ以前にも、頼朝らの祖先にあたる平安時代中期の武士・源頼義が拠点にするなど、源氏(河内源氏)ゆかりの地です。
南関東で勢力拡大をはかっていた源義朝は、逗子の沼間(沼浜城)からこの場所に館を移していますし、鎌倉入りを果たした源頼朝は、はじめ、この場所に館を構えようとしました。
後に寿福寺が建てられたこの土地は、源氏(河内源氏)にとってそれくらいシンボリックな場所だったのです。
境内の脇からは、寿福寺の裏山にあたる、「源氏」の名が付いた源氏山公園に登る入口があります。
源氏山公園へ行くルートは複数あります。寿福寺から登るルートはメジャーではありませんが、とくに登りはじめはいきなり急峻な地形が目の前に立ちはだかり、中世の雰囲気をよく感じさせてくれます。
途中には、寿福寺のお隣りに建つ英勝寺のあたりに屋敷を構えていた太田道灌の墓もあります。
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北条政子を象徴しているような寿福寺の紅葉
寿福寺の紅葉は控えめですが、参道の杉並木の中にポツンと立つモミジの木は文字通り紅一点で映えます。それは、武家政権という男社会を力強く生き抜いた尼将軍・北条政子を象徴しているかのようにも見えます。
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