小坪坂(小坪峠)は、鎌倉と逗子を結ぶ峠道の一つで、中世から近世までは、鎌倉側の入口は材木座(鎌倉市材木座)あるいは飯島(逗子市小坪の字飯島)付近、逗子側の入口は小坪の牛頭天王社(現在の須賀神社、逗子市小坪の字谷戸)付近だったとみられています。
しかし、現在の小坪周辺は、埋め立てや宅地開発、バイパス道路の建設などが進み、古道としての小坪坂の道すじをたどることは困難です。唯一、逗子側の姥ヶ谷周辺で、往時の小坪坂の面影を感じることができます。
なお、この小坪坂は、古代の東海道のルートの一部あるいはルートの一つだったともみられています。(「古東海道」は、律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)
小坪坂のエピソードとして有名なのは、源頼朝が平家討伐のため挙兵した際、これに呼応した三浦一族が、当時平家方だった畠山重忠らと戦った小坪合戦(小坪坂の戦い)です。
この戦いでは、三浦一族の和田義盛らが小坪坂に陣を構え、由比ヶ浜に陣を敷いた畠山重忠らと対峙しています。
INDEX
小坪合戦で三浦一族が陣を敷いた小坪坂
鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」巻二十一の「大沼三浦に遇ふ」「小坪合戦」および「衣笠合戦」によると、1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆国で挙兵すると、それに呼応した三浦義澄を大将とする三浦一族の軍勢は三浦半島を出発して、相模湾沿いを西へと向かいます。しかし、途中の川が増水していたため足止めされ、石橋山の戦いには間に合わず、頼朝らの敗北を知った義澄らは、三浦半島へ引き返すことになります。
その帰路の途中、平家方の畠山重忠らと遭遇し、三浦一族はまさに小坪坂を登ろうとしているところで畠山勢に追いつかれてしまいます。
三浦一族は、和田義盛らの前線を小坪峠に、三浦義澄らの後方を鐙摺城に、畠山重忠の軍勢は由比ヶ浜の稲瀬川河口付近に陣を敷きました。縁戚関係にあることから、両陣営は、一度は停戦に合意しますが、後から駆けつけた和田義盛の弟・義茂が畠山重忠らに討ちかかったため、結局、戦闘が開始されてしまいます。
この小坪合戦では両者損害を出しながら、三浦一族が衣笠城まで後退する展開となり、その後の衣笠城合戦では援軍を受けた畠山重忠の軍勢が勝利を収めることになります。
鎌倉道と呼ばれた小坪坂を迂回する断崖絶壁ルート
中世から鎌倉と逗子との往来に用いられてきた主な道は、内陸側の山越えルートが鎌倉七口の一つに数えられている名越切通で、海側の山越えルートが小坪坂でした。いずれも難所であったため、近世以降にトンネルが開削されるなど、複数のバイパスが造られていくことになります。
その過渡期に用いられていたのが、小坪の山を越えるのではなく、海岸に面した山の中腹を切り開いて通れるようにしたルートでした。
この海岸ルートは「小坪切道」「飯島切道」(「切通」(きりどおし)ではなく「切道」(きりみち)です)あるいは「親知らず」などとも呼ばれ、山越えの小坪坂より近道で高低差こそ少なかったものの、断崖絶壁の難所であることには変わらなかったようです。
江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」ではこの道のことを「鎌倉道」と呼んでいて、森戸海岸や霊山ヶ崎(稲村ヶ崎のあたり)、江の島、富士山などの景色が美しいと紹介していることから、この頃には海側のメインルートとして使われていた様子がうかがい知れます。
海岸ルート前面の海は1960年代後半から埋め立てられて、現在はリビエラ逗子マリーナなどになっています。
1969年(昭和44年)には材木座と飯島を結び、この埋立地に続く小坪海岸トンネルが開通して、1964年(昭和39年)に開通した現在の国道134号(当時の湘南道路)とともに、海岸ルートのメインルートととして使われるようになりました(参考:京急バスの逗子駅方面から鎌倉駅方面に向かう北行きのルートで、この区間は小坪海岸経由の一方通行)。土砂崩れなどの危険もあり、現在では「小坪切道」などと呼ばれた断崖絶壁の海岸ルートは廃道になっています。
鎌倉市立第一中学校の横を通る現在の小坪坂
現在、一般的に「小坪坂」と呼ばれているのは、光明寺の裏山にある鎌倉市立第一中学校の校門前から、さらにその上に広がる光明寺団地へと続く坂道です。学校の敷地を右側からまわり込むようにして登って行きます。坂の頂上付近で山側にそれる階段を登ると、逗子側の姥ヶ谷方面に続く古道に続いています。この辺りが小坪坂の最高地点「小坪峠」ということになります。
鎌倉市立第一中学校の開校は戦後のことで、その横にある現代の小坪坂もその前後に造られた道です。
時代をさかのぼって、1903年(明治36年)測図の地図によると、この当時の海側の山越えルートは、光明寺境内から裏山へ登ると、平地に造成前の現在の鎌倉市立第一中学校のグラウンド真ん中を横切って、小坪峠に接続しています。
住吉切通を通っていた中世の小坪坂
1913年(大正2年)には小坪峠の下をショートカットする小坪隧道が開通して、現在ではこれが海側山越えのメインルートになっています(参考:京急バスの鎌倉駅方面から逗子駅方面に向かう南行きのルートで、この区間は姥子台経由の一方通行)。
「新編相模国風土記稿」によると、中世から使われていた小坪坂は「住吉切通」と呼ばれる切通しを通っていました(やはり江戸時代に成立した地誌「新編鎌倉志」や「鎌倉攬勝考」では「小坪切通」という名前が見られますが、「住吉切通」と同じ場所を指しているのかは不明です)。
「住吉切通」という名前から、このルートは、住吉神社や住吉城跡近くの山中、具体的には現在も残る古い人道トンネル・住吉隧道付近に開削された切通しを通っていたとみられ、現在も残る道すじから、その鎌倉側の入口は飯島にあり、住吉切通、小坪峠を通り、逗子側の姥ヶ谷に抜けるルートだったと考えられます。