鎌倉幕府の初代征夷大将軍(初代鎌倉殿)・源頼朝は、1199年2月9日(建久10年1月13日)、享年53(満51歳没)で死去しました。頼朝の死因は、その前月の1月25日(建久9年12月27日)に催された相模川の橋供養からの帰路で落馬したことが原因とする説(「吾妻鏡」に記された死因)が有力とされていますが、詳しいことは分かっていません。
源頼朝は死後、鶴岡八幡宮の東側で、頼朝の住まいだった大倉御所(大倉幕府)を見下ろす山の中腹の平場にあった法華堂(頼朝の持仏堂)に葬られました。
頼朝の法華堂(頼朝の墓)は日本初となる武家政権の創設者の墓として、後の権力者からもあつい信仰を集めました。「吾妻鏡」や「北条九代記」から、鎌倉時代だけで少なくとも3回は焼失したことが分かっています。しかし、その度に再建されていて、鶴岡八幡宮と並ぶ将軍家や幕府のよりどころとなる施設であったことがうかがい知れます。
江戸時代末の時点では、鎌倉時代に法華堂が建っていた山の中腹には源頼朝の墓だけが残され、法華堂は山のふもとに移されていました。
この法華堂は仏教施設であったため、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈)で取り払われることになります。現在、頼朝の墓の下に鎮座している白旗神社は、明治維新後に源頼朝を御祭神として創建された神社であり、信仰的には法華堂とはまったくの別物ですが、源頼朝の聖地という意味では精神的な連続性のある場所と言えます。
観音信仰にあつい源頼朝の持仏堂からはじまった法華堂は、頼朝の死後は、事実上、頼朝自身が信仰の対象になったと言えます。この源頼朝法華堂(源頼朝の墓)は、その時代ごとにさまざまな変化をしていくことになりますが、鎌倉幕府の創設者を祀る場としては一貫しています。
現在も、修学旅行や遠足の生徒をはじめ、観光客の参拝が絶えません。この時代の人物で、いつの時代もほぼ継続して供養が続いている墓所というのもめずらしく、源頼朝が示した力や魅力の偉大さをよく表わしています。

INDEX
源頼朝の守り本尊・聖観音像と持仏堂
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では、源頼朝はとりわけ観音信仰にあつい武将として描かれています。それぞれ後に、坂東三十三観音霊場の第1番・第2番札所となる、杉本観音(杉本寺)や岩殿観音(岩殿寺)などへの寄進や参詣の記録も残されています。
もっとも象徴的なのは、源頼朝の守り本尊が正観音像(聖観音像)だったという逸話です。これは、頼朝が3歳のとき、乳母が清水寺に籠り、頼朝の将来を祈念した末に、夢のお告げで得られたという、大きさ2寸(約6cm)の銀の正観音像で、流罪となり伊豆で暮らしている間もお祈りを欠かさなかったと言います。
平家討伐の挙兵をした際には、自らの髻(頭の上で束ねた結び目)に潜めて合戦に臨んだと言います。この戦いで劣勢となり、岩窟に隠れていたところを平家方の梶原景時に見つかった際にも、この正観音像のおかげて難を逃れたという描写が「吾妻鏡」で語られています。
また、源頼朝が奥州征伐のため鎌倉から出兵した際には、伊豆山権現の住職・専光房を呼び寄せて、留守中に、自邸の裏山に守り本尊の正観音像を安置する堂宇を建てて、祈りをささげるよう依頼しました。
これが、源頼朝の持仏堂、後の法華堂のはじまりであるとみられます。
幾度も幕府内の内乱や火災に巻き込まれた鎌倉時代の法華堂
| 年 | 主な出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 1213年(建暦3年) | 和田合戦(和田義盛の乱) 和田勢に御所を焼かれた源実朝が法華堂に避難 | 吾妻鏡 |
| 1231年(寬喜3年) | 火災による焼失 | 吾妻鏡 北条九代記 |
| 1247年(宝治元年) | 宝治合戦(三浦氏の乱) 三浦泰村の一族とその同志ら500余名が法華堂で自害 | 吾妻鏡 北条九代記 |
| 1280年(弘安3年) | 火災による焼失 | 北条九代記 |
| 1310年(延慶3年) | 火災による焼失 | 北条九代記 |
(北条九代記では主に「法花堂」と表記)
「吾妻鏡」などでは、鎌倉時代に源頼朝法華堂で発生したさまざまな出来事が記録されています。頼朝の供養や執権北条氏の参詣などの記事がみられる一方、幕府内での内乱や火災に巻き込まれるといった大きな事件もありました。
和田合戦(和田義盛の乱)や宝治合戦(三浦氏の乱)では、攻め込まれた側が法華堂を避難所としていることから、防御がしやすい要害の地という認識があったものとみられます。あるいは、源頼朝の聖地に向かって弓矢や火を放つことはないだろうという、「頼朝」を盾に利用した行為だったのかもしれません。また、和田合戦では、一時的にとはいえ、鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)・源実朝という幕府内で最も高貴な者が滞在する場所であったこと、宝治合戦では、その全員が堂内にいたわけではないにしろ、500余名もの人数が集まっていたことから、源頼朝法華堂はそれなりの規模の建物だったことが想像できます。
なお、「吾妻鏡」には、宝治合戦の際、法華堂に従事する僧が、三浦一族とその同志が自害に至る一部始終を、天井裏で聞いていたというくだりがあります。これによると、三浦光村が、自害後の身元を隠すために、自ら顔を傷つけて法華堂内に掲げられていた頼朝の御影を血で汚したことや、法華堂に火を放つことを提案したのに対して、光村の兄で三浦一族の当主・三浦泰村は、頼朝への忠義に極めて反する行為だとして、これを制止しています。すでに頼朝の死から50年近く経っていましたが、死に際しても、自らの保身のためより、歴代の一族の頼朝への忠義を優先したことに、この当時の鎌倉幕府の古参御家人の頼朝に対する信条を垣間見ることができます。
鶴岡八幡宮寺・相承院の管理下となった室町時代以降の法華堂
1231年(寬喜3年)に北条時房の公文所から発生した大火事では、隣りの山腹にあった北条義時の法華堂とともに、その本尊も含め、焼失してしまいました。
このときの「本尊」が、源頼朝の守り本尊・銀の正観音像(聖観音像)のことを指しているのかは不明です。
というのも、江戸時代前期に成立した地誌「新編鎌倉志」では、頼朝の守り本尊・銀の正観音像は鶴岡八幡宮の別当坊(鶴岡二十五坊)の一つ・相承院に安置されていると具体的に書かれているためです。遅くとも室町時代の応永年間以降は、源頼朝法華堂は相承院が管理するようになっていました。また、法華堂内には、阿弥陀如来の他、如意輪観音と報恩寺(廃寺)の本尊だった地蔵像が安置されていたと言います。
これが、江戸時代後期に編さんされた「新編相模国風土記稿」の時点では、阿弥陀如来は破損したとあり、如意輪観音が本尊とされています。
源頼朝の守り本尊・銀の正観音像ではありませんが、頼朝の観音信仰を意識してか、結果的に、持仏堂時代の最初期から祀られていた観音像に先祖返りしたことになります。
なお、この如意輪観音には、奈良時代に鎌倉を治めていた染屋太郎時忠(染谷太郎時忠)の娘の遺骨が納めてあるとか、石山寺より仏舎利5粒を納めたが今は分身して3合ばかりになったなどという伝説も伝えられています。
薩摩藩主・島津重豪によって整備された源頼朝の墓
現在、山の中腹でみられる源頼朝の墓(石塔)は、江戸時代後期の1779年(安永8年)、薩摩藩主・島津重豪によって整備されたものです。頼朝の墓の石塔手前に設けられている線香立てに、島津氏の家紋である「丸に十の字」が刻まれているのは、そのためです。
島津氏の祖である島津忠久は頼朝の子(庶子)であるとされていて(諸説あり)、代々、本姓を清和源氏と名乗っています。
このとき、源頼朝の墓が、頼朝存命時より法華堂(持仏堂)があった山の中腹に整備されたことから、おそらくこの頃には法華堂はここにはなく、山のふもとに移されていたと考えられます。
この源頼朝の墓(源頼朝法華堂跡)は、1927年(昭和2年)に「法華堂跡」として国の史跡に指定されました。2006年にはこの東側の隣りにある北条義時の法華堂跡も統合され、現在は「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」という名称で指定されています。
北条義時の法華堂跡の背後にあたる山の中腹には、島津氏の祖・島津忠久の墓もあります。

白旗神社創建により「仏」から「神」となった源頼朝

現在、源頼朝の墓へと登る石段の入口には、源頼朝を祀った白旗神社が鎮座しています。
この白旗神社は、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈)により仏教の施設であった源頼朝の法華堂は取り払われ、それと入れ替わるように、1872年(明治5年)に創建されました。当初は小規模な祠でしたが、1970年(昭和45年)に現在の社殿などが整備されています。
| 主祭神 | 源頼朝 |
| 旧社格等 | ― |
| 創建 | 1872年(明治5年) |
神仏分離令によって、源頼朝は「仏」から「神」として祀られるように変わったわけですが、一般の庶民にとっては、頼朝は頼朝以外の何物でもないと感じていたかもしれません。
なお、この当時の源頼朝法華堂の本尊だった如意輪観音やその他の堂内の仏像は、ここからほど近い場所にある、西御門の来迎寺に移されています。
「白旗神社」という神社名は、源氏の旗印である白旗に由来するもので、境内には数多くの奉納された白旗がたなびいています。源頼朝ら源氏を主祭神として祀る神社として、関東地方を中心に数十社みられ、こちらの白旗神社のすぐ側の、源頼朝が創建した鶴岡八幡宮の境内にもあります。鶴岡八幡宮内の白旗神社のほうが歴史はずっと古く、1200年(正治2年)に北条政子が創建した神社です。
白旗を連想させるような白旗神社の桜

源頼朝法華堂跡(源頼朝墓)や白旗神社のすぐ手前の、大倉御所(大倉幕府)跡推定地周辺の小路は、ソメイヨシノの桜並木になっています。しかし、白旗神社の一角だけはオオシマザクラが植えられています。源頼朝を祀る神社に薄紅色のソメイヨシノを植えずに、白色が映えるオオシマザクラを選んだのは、源氏の旗印である白旗にちなんでのことでしょう。

謎に包まれたままの源頼朝の死因と吾妻鏡の空白の3年間
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」では源頼朝の最晩年、3年分の記述が欠落していることが知られています。このことが、頼朝の死因についてさまざまな憶測が生まれる原因になっています。(「吾妻鏡」には他にも欠落している期間がありますが、この期間が突出して長い欠落になります)
「吾妻鏡」は、年代順に鎌倉幕府周辺の出来事を記した、この時代の歴史書としてはもっとも体系的にまとまった文章です。しかし、北条得宗家の視点で書かれた文章のため、北条氏を美化するような記述があったり、北条氏の正当性を示すために事実を歪曲するような記述もあるとされています。
「吾妻鏡」の空白の3年間が、元から存在していなかったのか、北条得宗家が政権を握っていた鎌倉時代中に欠落したのか、鎌倉時代以降に欠落したのか、にもよりますが、北条氏にとって何か都合が悪い出来事があったことが推測できます。
それが、源頼朝の死の直前3年間だったということで、なおさら、さまざまな憶測を呼んでいます。歪曲すらできないほど、闇が深いことなのかもしれません。
後の北条氏による執権体制確立までの、頼朝の血統の断絶と、執拗なまでの有力御家人の排除の歴史を見れば、幕府の最高権力者の後継者問題は頼朝の思い描いていた未来とはまったく違った結果になったことでしょう。
源頼朝の側近だった北条時政や義時、あるいは妻・北条政子が、頼朝の死に直接関与していたかは分かりませんが、次期鎌倉殿擁立に向けて頼朝が準備して来たことは、北条氏によって完全に打ち砕かれることになりました。頼朝の死後の歴史と整合性をとることも困難なため、「吾妻鏡」への記述が省かれたか、後年の北条得宗家によって意図的に削除されたものと考えられます。
法華堂跡(源頼朝墓)&白旗神社周辺の見どころ
北条義時法華堂跡(北条義時墓)周辺



鎌倉宮方面





鶴岡八幡宮方面


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