鎌倉幕府の初代征夷大将軍(初代鎌倉殿)・源頼朝は、1199年2月9日(建久10年1月13日)に、享年53(満51歳没)で死去しました。前月の1月25日(建久9年12月27日)に催された相模川の橋供養からの帰路で落馬したことが死につながったとする説(「吾妻鏡」に記された死因)が有力とされていますが、詳しいことは分かっていません。
源頼朝は死後、鶴岡八幡宮の東側で、頼朝の住まいでもあった大倉御所(大倉幕府)を南側に見下ろす山の中腹の平場にあった法華堂(持仏堂)に葬られました。
頼朝の法華堂は日本初となる武家政権の創設者の墓として、後の権力者にもあつく信仰を集めました。その後、幾度かの火災のたびに焼失と再建をくり返しましたが、17世紀初頭までには法華堂は滅失してしまいました。
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現在の源頼朝墓は薩摩藩主・島津重豪によって整備
現在の源頼朝の墓(石塔)は、この法華堂の跡地に、江戸時代後期の1779年(安永8年)、薩摩藩主・島津重豪によって整備されたものです。頼朝の墓の石塔手前に設けられている線香立てに、島津氏の家紋である「丸に十の字」が刻まれているのは、そのためです。
島津氏の祖である島津忠久は頼朝の子(庶子)であるとされていて(諸説あり)、代々、本姓を清和源氏と名乗っています。
源頼朝の墓は、この東側の隣りにあった北条義時の法華堂跡とともに、「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国の史跡に指定されています。
北条義時の法華堂跡の背後にある山の中腹には、島津氏の祖・島津忠久の墓もあります。
源頼朝を祀った白旗神社
源頼朝の墓へと登る石段の入口には、源頼朝を祀った白旗神社があります。神仏分離によって、1872年(明治5年)に創建されました。境内には、源氏の旗印である白旗がいくつもたなびいています。
同じ白旗神社という名前の神社は、こちらの白旗神社のすぐ側の、源頼朝が創建した鶴岡八幡宮の境内にもあります。鶴岡八幡宮内の白旗神社のほうが歴史はずっと古く、1200年(正治2年)に北条政子が創建した神社です。
白旗を連想させるような白旗神社の桜
源頼朝法華堂跡(源頼朝墓)や白旗神社のすぐ手前の、大倉御所(大倉幕府)跡周辺の小路は、ソメイヨシノの桜並木になっています。しかし、白旗神社の一角だけはオオシマザクラが植えられています。源頼朝を祀る神社に薄紅色のソメイヨシノを植えずに、白色が映えるオオシマザクラを選んだのは、源氏の旗印である白旗にちなんでのことでしょう。
謎に包まれたままの源頼朝の死因と吾妻鏡の空白の3年間
鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」では源頼朝の最晩年、3年分の記述が欠落していることが知られています。このことが、頼朝の死因についてさまざまな憶測が生まれる原因になっています。(「吾妻鏡」には他にも欠落している期間がありますが、この期間が突出して長い欠落になります)
「吾妻鏡」は、年代順に鎌倉幕府周辺の出来事を記した、この時代の歴史書としてはもっとも体系的にまとまった文章です。しかし、北条得宗家の視点で書かれた文章のため、北条氏を美化するような記述があったり、北条氏の正当性を示すために事実を歪曲するような記述もあるとされています。
「吾妻鏡」の空白の3年間が、元から存在していなかったのか、北条得宗家が政権を握っていた鎌倉時代中に欠落したのか、鎌倉時代以降に欠落したのか、にもよりますが、北条氏にとって何か都合が悪い出来事があったことが推測できます。
それが、源頼朝の死の直前3年間だったということで、なおさら、さまざまな憶測を呼んでいます。歪曲すらできないほど、闇が深いことなのかもしれません。
後の北条氏による執権体制確立までの、頼朝の血統の断絶と、執拗なまでの有力御家人の排除の歴史を見れば、幕府の最高権力者の後継者問題は頼朝の思い描いていた未来とはまったく違った結果になったことでしょう。
源頼朝の側近だった北条時政や義時、あるいは妻・北条政子が、頼朝の死に直接関与していたかは分かりませんが、次期鎌倉殿擁立に向けて頼朝が準備して来たことは、北条氏によって完全に打ち砕かれることになりました。頼朝の死後の歴史と整合性をとることも困難なため、「吾妻鏡」への記述が省かれたか、後年の北条得宗家によって意図的に削除されたものと考えられます。