野島公園は、海あり山あり、春には桜や牡丹、初夏にはあじさいのお花見をたのしめ、縄文時代の貝塚や明治期の海浜別荘建築、東京湾要塞の戦争遺跡が残っていたり、キャンプ場・バーベキュー場や野球場のような施設も子ども向けの遊具もあり、ここまでいろいろな見どころや機能がそろった公園はめずらしいです。
野島は三浦半島の付け根に位置する平潟湾の入口に浮かぶ島です。現在は、夕照橋・野島橋・帰帆橋の3本の橋で内陸と結ばれています。
その野島の東側半分が野島公園として整備されています。西側は主に住宅地になっています。
島の中央にあたる野島山の山頂には、眺望の良い展望台があり、春にはソメイヨシノが咲き乱れる横浜金沢屈指のお花見の名所でもあります。
この山には、縄文時代早期の野島貝塚や、第二次世界大戦末期に造られた飛行機のための防空壕「野島掩体壕」などが残っています。
野島公園の海に面した部分は、横浜に唯一残る自然の海岸である野島海岸(乙舳海岸)の小さな砂浜があったり、キャンプ場・バーベキュー場として利用されています。
また、古くから景勝地や海水浴場として知られた野島周辺には時の有力者の別荘があったことでも知られていて、公園内に今も残る旧伊藤博文金沢別邸にその面影を見ることができます。
かつては江戸時代後期に浮世絵師として活躍した初代・歌川広重(安藤広重)が描いた『金沢八景』の一つ「野島夕照」として、現代でも『かながわの景勝50選』の一つ「野島の夕映」として、入り江に浮かぶ野島は景勝地として知られています。
INDEX
横浜最後の天然の海岸 乙舳海岸
横浜市南部の海岸は「金沢地先埋立事業」によって、海の公園のあたりまで埋め立てが行われ、自然の海岸線は失われてしまいました。海の公園のあたりは、かつては「乙舳海岸」と呼ばれていた海岸が広がっていましたが、その最後の名残りが野島公園にわずかに残る砂浜です。
海水浴場ではありませんが、春先から、干潮時には潮干狩りをたのしむことができます。
野島海岸(乙舳海岸)近くの海沿いには、キャンプ場・バーベキュー場(いずれも事前予約制)があります。
平潟湾に続く水路沿いにあって、木立がほどよい木陰をつくってくれて、居心地が良い空間です。
横浜市南部を一望できる野島公園・展望台
海抜57mの野島の頂上には展望台があります。近くにさえぎるものがないため、展望台に登ると、晴れた日には房総半島から富士山まで見渡せる、360度のパノラマが広がります。
目に入る海岸線はすべて人工のものですが、江戸時代ごろに埋め立てがはじまるまでは、内陸に残る丘陵地近くまで海が迫っていました。
金沢八景「野島夕照」、かながわの景勝50選「野島の夕映」として知られる景勝地
野島の西側には細長い入り江のような平潟湾がありますが、江戸時代に開拓がはじまる前までは、もっと広く、内陸まで海が広がっていました。
鎌倉時代に、鎌倉の外港・貿易港として栄えた「六浦津」は、この湾周辺にありました。「六浦」は、現在はだいぶ内陸に位置していて、地名にその面影を残すくらいになっています。
そんな入り江の入口に浮かぶ野島は昔から景勝地として知られ、江戸時代後期に初代・歌川広重(安藤広重)によって描かれた『金沢八景』の一つ「野島夕照」として有名です。
また、現代でも、神奈川県が選出した「かながわの景勝50選」に「野島の夕映」として選ばれています。
野島貝塚は横浜最古の貝塚
野島の山頂から中腹にかけての崖には、縄文時代早期の貝塚「野島貝塚」があります。野島貝塚は横浜最古の貝塚で、国内最古級の夏島貝塚もほど近い場所にあることから(直線距離で東に1kmほど。夏島貝塚は横須賀市内に所在)、このあたりは古来から暮らしやすい場所であったことがうかがえ知れます。
国内最大規模の飛行機の防空壕 野島掩体壕
野島貝塚は1940年代(昭和20年代前半)ごろから発掘・調査がされましたが、これと同じころの第二次世界大戦末期に、野島を貫くような大きな防空壕が造られました。
防空壕と言っても人間向けのものではなく、横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から守るためのもので、「野島掩体壕」と呼ばれていました。現存する掩体壕では日本最大規模のもので、長さ260m、入口は高さ7m、幅20mあります。
崩落の危険があるため中に入ることはできませんが、公園の野島海岸(乙舳海岸)近くの園路から見える入口部分だけでも、その大きさ実感できます。
野島掩体壕は、実際に使われることがなく終戦を迎えましたが、今も昔も景勝地として平和に見えるこのあたりにも、戦争の大きな傷跡が残っています。
鎌倉時代創建の 稲荷神社
野島公園のキャンプ場・バーベキュー場の近くに鎮座する稲荷神社は鎌倉時代の1227年(安貞元年)の創建と伝わる由緒あるお稲荷さんです。
江戸時代には、近くに「塩風呂御殿」と呼ばれる別邸を構えていた徳川頼宣に、鬼門を守護する神社として尊ばれていました。
別荘地であったことを今に伝える 旧伊藤博文金沢別邸
野島公園の一角には、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文の別邸が残っています。1898年(明治31年)に建てられた茅葺寄棟屋根の海浜別荘建築で、現在の建物は、一度解体後、調査されて、2009年に復元・公開されたものです。
伊藤博文はこの金沢別邸を建てる前にも、この地に近い夏島に別荘を持っていました。夏島の別荘や金沢八景にあった東屋旅館では、大日本帝国憲法(明治憲法)を起草したことが知られています。
後年、再度この地に別荘を構えることにしたのは、相当このあたりの環境が気に入っていたのでしょう。
旧伊藤博文金沢別邸の庭園は、牡丹園になっています。毎年4月には「ぼたんまつり」が開かれています。
江戸時代から野島にあった旧永島邸の庭園のボタンが「泥亀の牡丹」として有名であったことから、ボタンは金沢区の「区の花」となっています。
江戸時代に、永島祐伯とその子孫を中心に、現在の京急線の金沢文庫駅と金沢八景駅のあいだあたりの内海が新田として開拓されました。この新田は、永島祐伯の雅号「泥亀」にちなんで「泥亀新田」と呼ばれていました。
この永島家の邸宅が、野島にありました。
昭和期以降、「泥亀新田」の新田は埋め立てられていき、宅地や工場などに変わっていきましたが、「泥亀」という地名は現在も残っています。
お花見に最適な野島公園の桜
野島公園では、山頂の展望台広場の他、あそび場や旧伊藤博文金沢別邸の庭園など、園内のいろいろな場所で桜をたのしめます。
とくに、広い芝生広場のある展望台広場は、お花見に最適です。登り降りするのが少したいへんですが、山頂まで登ってしまえば、公衆トイレもありますし、快適に過ごせます。
ピンク色が目立つ野島公園のあじさい
初夏の野島公園では、園内各所に植栽されているあじさいをたのしむことができます。旧伊藤博文金沢別邸側の展望台登り口付近や野球場の周囲などで多く見られます。野島公園のあじさいは、種類こそ多くないものの、ピンク色に色づくものが多いのが特徴です。
子ども向け遊具のある2つの広場
野島公園には、野球場とキャンプ場・バーベキュー場の間にあるあそび場や野島公園駅側の入口近くの小公園といった、子ども向けの遊具が備わった街区公園のような広場もあります。