神明白旗神社が鎮座する三浦市初声町和田は、主祭神である和田義盛の領地だった場所です。
和田義盛は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将です。義盛は鎌倉幕府の要職を歴任しましたが、その権力を快く思わない者もいました。その筆頭であった鎌倉幕府第2代執権・北条義時の挑発にあい、1213年(建暦3年)、義盛は鎌倉で打倒北条義時の兵を挙げますが、これに破れ、和田義盛の一族は滅亡しました。
1263年(弘長3年)、領主だった和田義盛の恩義に報いるために、和田の村民たちがこの地に社殿を設けて、白旗神社と称しました。
もう一柱の主祭神である天照大神は、後に白旗神社に合祀された神明社の主祭神で、これ以降、「神明白旗神社」と呼ばれるようになりました。
主祭神 | 天照大神 和田義盛 |
旧社格等 | ― |
創建 | 1263年(弘長3年) |
INDEX
「白旗」や「初声」の名前の由来
「白旗」は和田義盛が仕えた源氏の旗印で、これが白旗神社の名前の由来になっています。義盛は源頼朝による平家討伐や奥州藤原氏討伐の戦いで武功を挙げ、鎌倉幕府創設に大きく貢献しました。その活躍ぶりは、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」や軍記物語「平家物語」などにも描かれています。
なお、平家討伐後の、和田の村民を交えた酒席で披露された戦勝の舞「初声」が、和田が属していた初声村(現在の三浦市初声町)の名称の由来になったとされています。
初声には、これより前の奈良時代、大和国の長谷寺(現在の、奈良県桜井市初瀬)の十一面観音と同じ大木から造られた十一面観音が流れ着いたという伝承もあり、奈良の「初瀬」(現在の読みは「はせ」ですが、古くは「はつせ」と呼ばれていました)との関連も考えられます。
初声(または、隣りの長井という説もあり)に流れ着いたという十一面観音は、後に鎌倉に安置され、長谷寺が建立されました。
白旗神社付近にあった和田義盛の墓と伝わる義盛塚
和田義盛は、源氏三代が全盛の世には歴代の鎌倉殿の側近として、侍所別当や十三人の合議制などの要職を歴任しましたが、執権北条氏が鎌倉幕府の実権を握るようになるとその歯車は徐々に狂っていきました。最期は、鎌倉幕府第2代執権・北条義時の挑発にあい、さらにそれに追い打ちをかけるように同族の三浦義村の裏切りもあり、鎌倉の由比ヶ浜で討死しました。
和田義盛の墓としてよく知られているものは、討死した由比ヶ浜近くにある「和田塚」があります。古くから和田塚は、由比ヶ浜で討死した和田一族の屍を埋葬した場所と伝えられてきました。
また、江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記」(第五集・巻之百十 三浦郡四)には、本和田村・和田赤羽根村・和田竹之下村の項に「義盛塚」が紹介されています。由来は分からないとしながらも、和田義盛の墓と解説されていて、三崎道の東、方六間あまり(約11m四方)の敷地にあるとされています。
義盛塚の場所も、当時の三崎道の正確な道筋も分かりませんが、現在の初声町和田の国道134号沿いであることは間違いないでしょう。三崎道の「東側」ということは、今も和田義盛に関する史跡として残る和田城址や和田義盛の碑(ともに、国道134号やその旧道の「西側」)がそれである可能性は低く、白旗神社(国道134号の「東側」)が鎮座するあたりか、旧道が迂回していた和田義盛の碑の前あたりにあったことが考えられます。
境内からは和田の里を一望
神明白旗神社の本殿は、かつて和田義盛の館のおひざ元であった、和田の里を見下ろす高台に築かれています。
和田周辺の三浦半島南部は、中世から穀倉地帯が広がっていたと考えられていて、三浦一族の食糧庫でもありました。神明白旗神社の境内から見る景色からは、今も変わらずこの辺りが三浦半島や周辺地域の食糧を支えている場所であることを実感できます。
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