佛日庵(仏日庵)は、円覚寺に20か院近くある塔頭の1院で、円覚寺の開基である鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の廟所(墓所)です。時宗の子で第9代執権・北条貞時と、孫にあたる第14代執権・北条高時もあわせて祀られています。佛日庵は、円覚寺境内の、舎利殿などのある正続院の、一つ奥にあります。
(「塔頭(たっちゅう)」とは禅宗寺院の境内またはその周辺に建つ付属の小寺院のことで、厳密には、宗派の開祖や代々の住持、高僧の墓塔のことです)
北条時宗は、自らが南宋より招いた無学祖元禅師(仏光国師)を開山として、禅を広めて、災いや戦乱をしずめ国の平安をまもることと、元寇(蒙古襲来)による殉死者を敵味方の区別なく平等に供養するために、円覚寺を創建しました。
山号 | ― |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 延命地蔵菩薩坐像 |
創建 | 1284年(弘安7年) |
開山 | ― |
開基 | ― |
佛日庵は、北条時宗が生前、小さな庵を結び、禅の修行をしていた場所に建立されたと伝えられています。
北条時宗の墓所である開基廟には、時宗が禅の修行をしていたときに信仰していたと伝わる十一面観音坐像(鎌倉三十三観音霊場第三十三番)が安置されています。
また、佛日庵の本堂には、南北朝時代の作と伝えられているご本尊・延命地蔵菩薩坐像(鎌倉二十四地蔵尊霊場第十四番札所)が安置されています。
強硬姿勢で元寇を乗り切った北条時宗
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の時代のもっとも大きなトピックは、二度の蒙古襲来、いわゆる元寇(文永の役・弘安の役)に遭った点と言えるでしょう。文永11年(1274年)の文永の役・弘安4年(1281年)の弘安の役は、まさに、時宗の執権在職期間(1268年~1284年)の真っただ中に起きた出来事でした。
執権・北条時宗はこの国難において、国内外に対して強硬姿勢を貫き通して、元軍の侵攻を退けています。元軍に対する強硬姿勢という点では、時宗が深く帰依していた無学祖元が南宋出身で、自らも元軍に襲われた過去があったということも、追い風になっていたと考えられます。
当時の日本の外交は、表向きは朝廷が担当するという位置づけだったようですが、1221年(承久3年)に承久の乱で鎌倉幕府が朝廷に勝利して以降は、事実上の外交権は幕府にあったものと考えられます。
元軍はある日突然日本に襲いかかってきたわけではなく、その数年前から、日本を服従させるための国書を携えた使節が何度も来日していました。そのため、北条時宗は、事前の準備をすることができていました。沿岸警固のような武力の準備は十分とは言えなかったかもしれませんが、少なくとも政治的な面では。
承久の乱のころの第2代執権・北条義時と似ているところもあり、抵抗勢力になり得る存在を徹底的に排除するなど、時宗は統率力あるいは求心力を高めることに終始していたと言えます。それは、自らの異母兄である時輔をはじめとした身内から、「立正安国論」などで間接的に幕府批判をしていた日蓮のような宗教家まで、多岐に渡りました。現代の感覚では同調することは難しいですが、当時はそれが正攻法だったのでしょう。
北条時宗は仏教、とくに禅宗を深く信仰していたことで知られています。義時もそうでしたが、歴史上の指導者たちは、強硬な政策をとった者ほど、その罪滅ぼしのためなのか、宗教を深く信仰するようなところが見受けられます。もちろん、根本にあった純粋な信仰心が大きくなっていった結果なのでしょうけれど。
北条時宗が、無学祖元を開山として、元寇による殉死者を敵味方の区別なく平等に供養するために建立したというこの円覚寺は、まさにその集大成のような場所と言えるのかもしれません。
無学祖元を祀る開山堂は、時宗を祀る佛日庵・開基廟のすぐ隣りの正続院境内に建っています。
茶の湯の文化を受け継ぐ川端康成ゆかりの佛日庵境内
佛日庵の境内は、本堂と開基廟が寄り添うように建ち並び、開基廟の十数メートルほど手前に山門の建つ、コンパクトな空間です。その真ん中にあるお庭では、お抹茶をいただけるようになっています。円覚寺は禅寺の境内と言うこともあり飲食できる場所は限られていますが、国宝・洪鐘の側にある弁天茶屋と並んで、貴重なお茶処と言えます。
佛日庵の庭のまわりには、1933年(昭和8年)に中国の小説家・魯迅より贈られたという白木蓮や泰山木の大木や、枝垂れ桜、あじさいなどが植えられていて、四季折々の花をたのしめます。
2007年まで、現在、本堂が建つ場所には不顧庵という茶室がありました。大正から昭和にかけて活躍した小説家・川端康成は、この茶室に寝泊まりして、代表作の一つ「千羽鶴」を書きあげたと言います。
佛日庵には、この「千羽鶴」に登場する茶室のモデルとなった烟足軒という茶室が残っています。もともとこの場所には、鎌倉幕府滅亡後に廃れた佛日庵を、室町時代に再興した鶴隠周音が建てた茶室があったと伝えられています。