円覚寺舎利殿は、「佛牙舎利(仏舎利)」というお釈迦様の歯の遺骨が祀られているお堂です。同時に、舎利殿の背後に建つ、円覚寺開山の無学祖元禅師(仏光国師)を祀る開山堂に礼拝するための昭堂も兼ねています。
舎利殿の建築は、安土桃山時代の天正年間、後北条氏第3代当主・北条氏康によって、鎌倉尼五山第一位であった太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものと考えられていて、室町時代の建築物と推定されています。(諸説あり)
円覚寺舎利殿は、禅宗とともに宋(当時の中国)より伝わった建築様式・禅宗様(唐様)のみで構成された貴重な建築であることから、建造物としては神奈川県で唯一の国宝に指定されています。
舎利殿は通常非公開ですが、例年、正月3ヶ日・GW・11月上旬の円覚寺宝物風入にあわせて特別公開され、建物の外観を見学することができます。
源実朝が宋の能仁寺から請来した佛牙舎利
「舎利」とは、サンスクリット語で遺骨を意味する「シャリーラ」を日本語に音写したもので、お釈迦様の遺骨なので「仏舎利(ぶっしゃり)」と呼ばれています。円覚寺舎利殿には、お釈迦様の右の奥歯が祀られていることから、とくに「佛牙舎利(ぶつげしゃり)」と呼ばれています。
円覚寺舎利殿の佛牙舎利は、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が宋の能仁寺から請来したものと伝えられています。
ある日、源実朝は自分が南山律宗の祖・道宣の生まれ変わりであるという夢を見ました。同じ夜に、寿福寺の栄西と鶴岡八幡宮寺の良真も同じ夢を見たことから、実朝は道宣の開山の能仁寺に佛舍利を請来したと言われています。
日本における臨済宗の開祖である寿福寺の栄西は、源実朝に多くの影響を与えたと考えられています。南宋へのあこがれもその一つと言えます。宋で修業した経験を持つ栄西が身近にいたことで、実朝は多くの情報を見聞する機会がありました。
源実朝の時代には、まだ円覚寺は創建されていません。実朝が請来した佛牙舎利は、もとは実朝が建立した大慈寺(新御堂、廃寺)に安置されていたと伝えられています。これを、円覚寺第二世・佛源が、鎌倉時代中期の1285年(弘安8年)に、執権北条氏ゆかりの円覚寺へ遷してお祀りするようになったと言われています。
円覚寺舎利殿で見られる禅宗様建築の特徴
円覚寺舎利殿は、純粋な禅宗様のみで構成された貴重な建築であるとされています。寺院の建築も時代によってさまざまなトレンドが生まれていて、一般的には新しい時代になればなるほど、複数の様式が組み合わされていくようになります。
円覚寺舎利殿には、具体的に以下のような禅宗様建築の特徴が見られます。
- 美しいカーブを描く軒の反り
- 軒裏の垂木を放射状に置く扇垂木
- 柱の上だけでなく柱と柱の間にも組み物を密に配置する詰組
- 枠組みの中に薄い板をはめ込んだ桟唐戸
- 開口部の上部が櫛型にデザインされた花頭口および花頭窓
- 採光や通風のための開口部が弓状にデザインされた弓欄間
- 弓欄間に添えられた宝珠
- 建物をより重厚なものに見せる庇状の裳階
円覚寺舎利殿はけっして大きな建築ではありませんが、建物の間近に立って実物を見てみると、塊感とデザインの緻密さ、美しさに圧倒されます。