鎌倉のシンボルの一つである鎌倉大仏(鎌倉大佛、長谷大仏)。
券売所を過ぎるとすぐ目に飛び込んでくる露坐の大きなその姿は、他のどのお寺のご本尊よりもシンプルに、真っ先にお参りすることになります。
現在の鎌倉大仏は露坐ですが、造立当初は大仏を覆う大仏殿がありました。
しかし、1334年(建武元年) と1369年(応安2年)の大風と1498年(明応7年)の大地震によって大仏殿は損壊して、それ以降再建されていないとみられています。
金箔で覆われていたと見られる表面の輝きも失われてしまっていますが、落ちついた青銅のお姿は、かえって仏像本来の静かな内なるパワーのようなものを感じます。
「鎌倉大仏は、東大寺大仏殿落慶供養に参列した源頼朝が、東国にも大仏を建立しようと願い、造られた」と語られることがよくあります。高徳院に伝わる、江戸時代に編さんされた「鎌倉大仏縁起」もそのような筋立てで書かれていますが、建立の経緯については物語性が強い内容です。
鎌倉大仏(木造の初代)は源頼朝の死後、およそ40年も経ってから造営がはじまっています。鎌倉殿は、すでに源氏将軍が滅んだ後の第4代将軍・藤原頼経、執権は第3代・北条泰時の時代です。
源頼朝の志は継いでいたかもしれませんが、直接関わったわけではないのです。
山号 | 大異山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ー |
本尊 | 阿弥陀如来坐像 |
創建 | 不詳 ※現大仏の造立開始は 1252年(建長4年) |
開山 | 不詳 |
開基 | 不詳 |
今も昔も鎌倉のシンボルである鎌倉大仏は、その存在感や知名度のわりに謎が多い仏像です。
鎌倉時代から現在まで残る寺院や仏像の多くは、鎌倉殿や北条得宗家などの時の権力者が建立に深く関与していました。しかし、鎌倉大仏にはそのような痕跡がほとんど見当たらず、いわば、鎌倉時代のクラウドファンディングによって、庶民の力で造られた仏像でした。
民衆のパワーが結集して造られたと思えば、その匿名性も、親しみやすさも、理解できる気がします。
INDEX
ミステリアスなその生い立ち
民間主導で造られた鎌倉大仏
鎌倉大仏造立やその寺院の創建については、誰がどのような目的で建立したのか、確かなことは分かっていません。
これほど大規模な仏像を、時の権力者(鎌倉殿、北条得宗家)のおひざ元に、幕府の関与なしに建立したとは考えにくいです。
しかし、同時期に建立された建長寺や円覚寺に見られるように、当時の幕府中央の関心は中国から伝わって間もない、禅宗の寺院に向いていました。
鎌倉大仏は、浄光という僧が勧進した浄財(寄付を募って集めた資金)をもとに造立されたという記録があることからも、建長寺や円覚寺のような禅宗の大寺院を整備しているなかでは資金的にも政治的(宗教的)にも、サポートしたくてもできない幕府の事情があったのかもしれません。
その後、鎌倉大仏は建長寺の末寺としての管轄であった時代もあるようです。江戸時代には光明寺の末寺となり、この頃に「高徳院」と名乗るようになったとみられています。
建長寺や円覚寺が時の権力者によるトップダウンの国家的プロジェクト(建前上は北条得宗家の私的な寺院だったとしても)だったのに対して、鎌倉大仏が民間主導のプロジェクトだったというのは、現代でも、前者は威厳があって格式を重んじる雰囲気が強いのに対して、鎌倉大仏はどこかお寺や宗教などというものを超えた親しみやすさを感じさせてくれることにつながっているように思います。
「吾妻鏡」で見られる鎌倉大仏
鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡」にも、鎌倉大仏に関する記述がたびたび見られますので、幕府も関心はあったようです。しかし、いずれも、どこか他人事のように記されています。
とくに象徴的なのが仁治2年(1241年)3月27日の条で、時の執権であった北条泰時が大倉北斗堂の立柱上棟に臨席した旨が記されていますが、同じ日に行われた鎌倉大仏の上棟の儀は、最後に一文、ついでのように記されているだけです。また、幕府の関係者が出席した様子も描かれていません。
以下は、「吾妻鏡」に登場する鎌倉大仏建立に関する主な記述です(一部を抜粋して、意訳したもの)。
はじめは大仏殿があったことや、金銅で造りなおされたことが分かります。
なお、「吾妻鏡」では、「鎌倉の大仏」や「長谷の大仏」などではなく、一貫して「深沢の大仏」と記されています。現在の「深沢」は、鎌倉大仏がある辺りより北側(大仏切通の北側)の地域を指しますが、この当時は、鎌倉大仏周辺も「深沢」と呼ばれていたようです。
嘉禎4年(1238年)3月23日 | 深沢里の大仏堂造営にとりかかる。浄光という僧が、尊卑・僧俗に関わらず寄付を募り、造営を進めるという。 |
嘉禎4年(1238年)5月18日 | 深沢里の大仏の、周八丈(24.24m)の頭部が挙げられた。 |
仁治2年(1241年)3月27日 | 深沢の大仏殿で、上棟の儀が行われた。 |
寛元元年(1243年)6月16日 | 深沢村に、八丈余の阿弥陀像を安置する寺院が建立され、供養が行われた。導師は大蔵卿法印良信で、讃を唱える僧は10人。 勧進聖人浄光房がこの6年間、都から地方まで寄付を募り、尊卑問わず寄付をしたという。 |
建長4年(1252年)8月17日 | 深沢里で、金銅八丈の釈迦如来像(阿弥陀如来像の誤記)の鋳造が始まる。 |
宋風の、鎌倉時代らしい作風
鎌倉大仏は、黄金の輝きこそ失われていますが、造立当初の姿を今によく留めていると考えられているため、歴史的にも仏教芸術史的にも重要な価値を有しており、国宝に指定されています。
作者は不明ですが、宋風の、鎌倉時代らしい作風です。
鎌倉大仏の胎内(大仏の内部)は空洞になっていて、中を見学することができるようになっています。外見から見る以上に、継ぎ目などの鋳造工程の跡をよく確認することができます。
背中に空いている窓は、換気のために作られたというわけではなく、鋳造の際に型の中に盛られていた土を取り除くために開けられたものです。
鎌倉大仏は今も昔も鎌倉のシンボル
鎌倉大仏が鎌倉のシンボルであったのは今にはじまったことではなく、中世以降の歴史書や紀行文、現代文学などでたびたび紹介されています。
とくに有名なのは、与謝野晶子の次の歌でしょう。境内にも、晶子直筆の歌が刻んである歌碑が建てられています。大仏は釈迦牟尼ではなく釈迦如来ですが、「吾妻鏡」の記事には釈迦牟尼とあったことから、これにならったのではないかという説があります。
かまくらや御ほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな
また、作家の大佛次郎は、文筆活動をはじめた当時、大仏の裏手に住んでいたため、このようなペンネームを付けました。本物の大仏が太郎だから、自分は次郎としたといいます。
大仏像以外にも見どころは多い
仁王門
高徳院の境内の入口にある仁王門(山門)は、他所から移築されたものと伝えらえています。その名の通り、内部には一対の仁王像が安置されています。
観月堂
観音霊場23番札所でもある高徳院の、観音菩薩立像が安置されています。
15世紀中頃の朝鮮王宮内に建築された建物で、1924年(大正13年)当時所持されていた山一合資会社(後の山一證券)の社長・杉野喜精氏から寄贈されたものです。
桜
境内には何種類かの桜が植えられていて、大仏像裏の観月堂近くや、手水舎の近くなどに多く見られ、春には境内を華やかな雰囲気にしてくれます。
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