名越切通は鎌倉と三浦半島を結ぶ古道で、現在の鎌倉市と逗子市の市境にあります。三浦半島から見た場合、陸路での数少ない玄関口でした。「鎌倉七口(鎌倉七切通)」の一つに数えられていて、国の史跡に指定されています。
名越切通は、かつては「名越坂」や「名越路」などとも呼ばれていました。「名越(なごえ)」とは、現在の鎌倉市大町から名越切通にかけた一帯の旧地名で、険しい難所であったため「難越(なごし)」と呼ばれていたことが由来とされています。
古くは、日本武尊が東国征討で通った古東海道(律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)の一部であったのにはじまり、鎌倉時代は鎌倉殿の側近として栄えた三浦一族が鎌倉での居館と領地であった三浦半島の衣笠城などの居城との往来に使用し、江戸時代には江戸や東海道方面から浦賀奉行所に向かう浦賀道(西回り)の一部でもありました。(いずれの道も、どこがメインルートであったか正確には分かっていないため、諸説あり)
名越切通は、明治期に入って切通の下に名越隧道(現在の県道311号)などのトンネルが開削されるまでは、主要な交通路として使用されてきました。
トンネル開削後も、峠越えのほぼ全区間約300mの山道はそのまま残されたため、「鎌倉七口」の中でもとくに古道の姿をとどめているとされています。しかし、近年の発掘調査の結果、現在の切通は江戸時代に何度も改修工事をした跡が見られ、そのルートを含めて中世やそれ以前の詳しい姿は分かっていません。
INDEX
3ヵ所に残る切通
現在の名越切通には、主な切通が3ヵ所残っています。逗子の亀が岡団地側の入口に近い方から、それぞれ、第一切通、第二切通、第三切通と呼ばれています。
第三切通付近からは、お猿畠の大切岸の尾根道を通って、現在の鎌倉逗子ハイランドをかすめ、鎌倉の浄明寺方面に抜ける古道の分岐があります。この古道は六浦道(現在の県道204号・金沢街道)に通じていて、朝夷奈切通を越えると、鎌倉の外港(貿易港)として栄えた六浦に抜けることができます。
このことから、名越切通は単なる山越えの峠道というだけでなく、交通の要衝であったことがうかがえます。
もっとも大きく深く切立った 第一切通
まんだら堂やぐら群のそばの 第二切通
お猿畠の大切岸方面への分岐近くにある 第三切通
鎌倉や逗子エリア最大級のやぐら群
中世の都市「鎌倉」の境でもあった名越切通の周辺では数多くの「やぐら」(横穴式の墳墓または供養塔)が見つかっていて、供養や祭礼の場であったと考えられています。
とくに、この名越切通にあるまんだら堂やぐら群は、鎌倉や逗子エリア最大級の規模をほこるやぐら群で、その数は150穴以上にのぼります。
まんだら堂やぐら群は、例年、初夏と秋・冬それぞれ1ヶ月間程度の期間の、土・日・月曜日と祝日のみ公開されています。
坂東三十三観音・第1札所から第3札所の中継地点
名越切通は、逗子市久木にある「坂東三十三観音」第2札所・岩殿寺(岩殿観音)と鎌倉市大町にある第3札所・安養院(田代観音)を結ぶ古道でもあります。また、第1札所・杉本寺(杉本観音)がある鎌倉市浄明寺とは、巡礼古道と呼ばれる道で結ばれています。