曹源寺は、奈良時代の高僧・行基草創と伝わる「宗元寺(宗源寺)」を前身に持つ、公郷町の寺院です。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」などによると、宗元寺は鎌倉幕府滅亡の際の兵火にかかり焼失したため、それ以降しばらくの間は、「宗源寺」と言う旧公郷村の地名の一つにその名を残すだけになっていたと言います。
豊臣秀吉が小田原征伐(小田原合戦)に勝利し、後北条氏(小田原北条氏)に変わって徳川家康が関東に入国すると、三浦半島は幕府直轄領となり、代官頭・長谷川長綱が治めるようになります。
その長谷川長綱によって再建されたのが、現在の「曹源寺」で、このときに寺名も改められました。
山号 | 東光山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師如来像 |
創建 | 天平年間(729年~749年) |
開山 | 中興:霊屋 |
開基 | ― 中興:長谷川長綱 |
曹源寺に伝わる「木造十二神将立像」(国指定重要文化財、県立金沢文庫に寄託)は、鎌倉時代初期の運慶派の特徴を示す優れた作品で、なおかつ十二体すべてそろっているということもあり、三浦半島の仏像のなかでも非常に貴重なものとされています。
とくに、巳神像は他の仏像と比べて若干大きく、表情は凛々しく、威厳に満ちた佇まいをしているように見えることから、十二神将のなかでも特別なものであるとみられています。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、北条政子が後に鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)となる源実朝を出産する際、鶴岡八幡宮をはじめ相模国の社寺28ヶ所に神馬を奉納し、読経させました。その一つが宗元寺であり、源実朝は巳の刻(午前10時ごろ)に無事産まれたため、この巳神像が際立つ十二神将立像は、源実朝の守護神として建立されたという見方もあります。
また、曹源寺は、平安時代から鎌倉時代にかけて三浦一族が本拠地とした衣笠城や大矢部にも近い場所にありますので、十二神将立像建立には三浦一族が関与していた可能性も高いと考えられます。
INDEX
宗元寺は公領の郷に建立された相模国を代表する大寺院
古代から中世にかけて存在した往時の「宗元寺(宗源寺)」は、相模国を代表する大寺院の一つだったとみられています。
昭和期に行われた調査では、現在の曹源寺南側に広がる県立横須賀高校周辺も含む、かなり広範囲で、宗元寺のものとみられる奈良時代から平安時代にかけての瓦などが出土したと言います。
宗元寺の周辺には古代の東海道が通っていたとみられていて、古くから人や物が行き交う場所にありました。(この「古東海道」は、律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)。
また、この頃、付近を流れる現在の平作川は、久里浜湾から大きな入り江のように公郷町や森崎あたりまで入り込んでいたとみられていて、宗元寺のあたりから舟を使って江戸湾(東京湾)に出て、上総国などの房総半島と行き来するというルートもあったかもしれません。
宗元寺が建立された「公郷」という地名の由来は、「新編相模国風土記稿」の公郷村の項に、江戸前期の正保年間の文書には「久江」と書かれていたことが紹介されていたり、かと思えば、戦国時代(室町時代)の永禄年間の文書を引用した中に「公郷」という文字が見られたりするように、今となっては一定の見方をすることが難しいと言えます。
仮に「公郷」という漢字がその場所のことをもっとも適切に表わしているとするならば、「公領の郷」からきているという見方ができます(公領とは、国司などの公権力が管理する土地のことで、私領である荘園とは対になる言葉です。国衙領とも言います)。
つまり、公郷は、当時の三浦半島の役所が置かれていたような場所で、宗元寺は三浦半島での国分寺のような位置づけとなる、公的な寺院として建立されたという見方もできます。
ただし、旧公郷村の春日神社(現在の横須賀市三春町)の由緒によると、平安時代の公郷は藤原氏の荘園だったともされているため、時代とともに支配体制は変化していったのかもしれません。
1936年(昭和11年)に発行された柳田國男著「地名の研究」によれば、「クゴ」とは「水づいた低地」あるいは「窪」や「沢」のことだとしています。もし、「公郷」という表記が口承されていくなかで生まれた語句でしかないのであれば、古平作川の入江の奥にあたるこの地の由来であってもおかしくありません。
「クゴ」は、東海地方で多く使われていた方言のようですので、藤原氏が荘園として支配していた時代に西の方から伝わってきて、そのまま地名となったのかもしれません。
曹源寺として再建した徳川家康の家臣・長谷川長綱
江戸時代初期に「宗元寺(宗源寺)」を「曹源寺」として再建した長谷川長綱は、豊臣秀吉による小田原征伐以前から徳川家康に仕えていて、家康とともに関東に移ってきました。
長谷川長綱は、自らと同じように駿河国から移ってきた之源臨乎が開山となって開かれた海宝院の創建を支援しました。海宝院は、現在の逗子・沼間にある曹洞宗の寺院で、横須賀・緑ヶ丘にあった良長院を移転するかたちで創建されました(その後、良長院があった場所には、同じ寺名の寺院が再建されています)。
曹源寺は、この海宝院の末寺として創建されました。
この当時の三浦郡の中心は浦賀や三崎と言った港町になっていたため、再建された曹源寺がかつてのような大寺院に発展することはありませんでした。大きな入り江のようになっていた現在の平作川中流~下流も、この頃には、田畑として利用するため開拓をはじめようとする者が現われる程度には縮小していて、沼地や湿地帯の中を平作川の原型が流れるような状態になっていたと考えられます。そのため、曹源寺から舟で気軽に海へ出るという環境でもなくなっていました。
長谷川長綱自身は、浦賀に陣屋を構えて、浦賀湊(浦賀港)や三浦郡全般の行政をつかさどり、近世以降の三浦半島の発展の基礎をつくりました。
長谷川長綱がどのような意図を持って曹源寺を再建しようと考えたのかは分かりませんが、そこに放置するように置かれていた、あの運慶派の特徴が見られる、巳神像が際立つ十二神将立像を見て、その仏像の重要性とこの場所にあった寺院の位置づけをすぐに理解し、再建に取りかかったのかもしれません。
史料に残されていることではありませんが、長谷川長綱の実績を考えれば、このような文化財保護のような観点があったとしても、不思議なことではないでしょう。