和田塚は、和田義盛と一族の墓と伝わる墳墓です。鎌倉時代前期の、1213年(建暦3年)に鎌倉の市街地で起きた和田合戦(和田義盛の乱)で執権北条氏の軍勢と戦い敗死した、和田義盛とその一族の屍を埋葬した塚と伝えられています。和田合戦で戦場となった由比ヶ浜の海岸にほど近い、住宅や商店などに囲まれた一角にある和田塚には、いくつもの供養塔や小さな五輪塔などが並んでいます。
目と鼻の先にある江ノ電「和田塚駅」の駅名は、もちろんこの和田塚に由来しています。
INDEX
和田義盛一族の墓と伝わる和田塚
和田義盛やその一族の多くは、最期の地に近いこの和田塚に葬られたと伝えられています。古くは「無常堂塚」と呼ばれていました。
和田合戦(和田義盛の乱)は、鎌倉時代に鎌倉市中で起きた最大規模の市街戦と見られていて、2日間で数千人の死者を出しました。和田塚の周辺では、明治時代の道路工事で、埴輪や多くの人骨が見つかっています。
現在、和田塚では、「和田義盛一族墓」などと刻まれた石碑が複数見られます。表側に見える石碑のうち、和田義盛の墓として建てられたものは、いずれも明治期に建立された石碑です。明治期に、現在の和田塚一帯が整備された際に、あらためて供養のために建てられた石碑だと考えられます。
かつての和田塚の面影
江ノ電「和田塚駅」前より続く道路から和田塚の入口を見ると、現在の和田塚は、周囲より1mほど高くなっていることが分かります。周辺が住宅地として整備される前は、きっと、こんもりとした丘のような「塚」が、この辺り一帯に広がっていたのでしょう。
宅地化が進んだうえに、もともとこの場所には古墳時代の墳墓があったとも言われていますので、純粋な和田義盛とその一族の墓としての塚の規模を想像することは難しいですが、現在の和田塚の後方に所狭しと建ち並ぶ五輪塔などの石塔が、合戦の惨劇を物語っているようです。
裏面に建立者や建立年月日などが刻まれた、明治期に和田義盛の墓として建てられた石碑と違い、これらの五輪塔などのほとんどは、いつ誰が誰のために安置したものなのか分かりません。ですが、おそらく、和田義盛とその一族をはじめ、合戦で命を落とした者たちを供養するものとして、明治期の石碑より以前からこの辺りにあったものが集められたのだと考えられます。今でも数多く見られますが、寺院や神社のように管理が行き届く場所ではないため、長い年月の中で散逸してしまったり崩壊してしまったものも多いでしょうから、往時は無数の供養塔が建ち並んでいたに違いありません。
三浦の和田義盛の墓や菩提寺
和田義盛の死後、義盛の本拠地であった現在の三浦市初声町和田にも、義盛を偲ぶ神社や顕彰碑が建てられました。
江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記」では、三浦の和田の地にも和田義盛の墓と伝わる義盛塚の存在が紹介されていますが、今ではその正確な場所は分からなくなってしまっています。
和田の地に隣接する三浦市南下浦町上宮田には、和田義盛の菩提寺である来福寺があります。来福寺は、1206~07年の建永年間に鎌倉の名越に建立されましたが、その後、三浦の和田の地に移り、さらに江戸時代前期に現在の場所に移りました。
三浦への移転の経緯は分かりませんが、和田合戦で逆臣となった和田義盛の寺が鎌倉に居づらくなったことは容易に想像できます。
一方で、和田義盛の墓である和田塚は、義盛とその一族の霊を鎮めると言う意味と、戦勝の記念としての意味で、鎌倉に残されたのでしょう。
歴代の鎌倉殿の側近として幕府を支えた和田義盛
和田義盛は、三浦一族の杉本義宗の子で、三浦大介義明の孫にあたります。三浦一族の第6代当主となった三浦義村とは、従兄弟の関係になります。
源頼朝による平家討伐の挙兵以来、頼朝の側近の一人として鎌倉幕府創設に貢献しました。幕府では、侍所別当として、軍事・警備面において、御家人たちを束ねる立場にありました。
頼朝亡き後も、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家を支える「13人の合議制」の一人に選ばれています。
執権北条氏によって排除された和田一族
その後もしばらくは鎌倉幕府の実質的な支配者となる執権北条氏と協調して幕府を支えていましたが、和田義盛が上総国の国司(長官)の職を所望するものの、北条義時や政子に阻まれるなど、徐々に関係は悪化していきます。さらに、和田義盛の子・義直や甥の胤長らが、源頼家の遺児を将軍(鎌倉殿)に擁立して、時の執権・北条義時を打倒する企てをたてている罪で捕まったことで、その立場は急変します。
和田義盛は鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)源実朝に許しを請うなど、事態の収拾に奔走しますが、北条義時の挑発にあい、形勢は悪くなる一方でした。決定的だったのは、共に戦うことを誓う起請文まで交わしていた同じ三浦一族の三浦義村が裏切り、北条義時に和田義盛挙兵の知らせを密告したことでした。
後に引けなくなった和田義盛は、御所や北条義時邸を襲いますが、すぐに反撃にあい、由比ヶ浜まで追い詰められてしまいます。
和田義盛や和田一族とその縁者たちは、由比ヶ浜や和田義盛邸のあった若宮大路で戦いますが、三浦義村を含む有力御家人の多くが味方した幕府方には勝てず、安房国(房総半島)に逃れた義盛の三男・朝比奈義秀ら一部を除いて、討死してしまいます。
この結果、北条義時は和田義盛が就いていた侍所別当の座と、義盛の一族と義盛に味方した武将の所領の多くを手にしました。北条義時が手に入れた領地には、山ノ内(現在の北鎌倉駅周辺や大船周辺)や六浦(現在の金沢文庫駅・金沢八景駅周辺)といった、鎌倉に隣接する、幕府の防衛や経済上重要な場所も含まれていました。
また、三浦義村は、三浦一族の中で、自身と並ぶかそれ以上の権力や影響力を持っていた長老格の和田義盛を排除したことで、一族の長としての立場を確実なものにしています。
和田義盛は弓の名手だったと言われ、平家討伐や奥州征伐などの戦では軍事奉行を務めるなどして活躍しましたが、政治的な駆け引きはあまり得意ではなかったようです。はじめから二人の連係プレーだったかは分かりませんが、そんな弱点を北条義時と三浦義村にうまく利用されて、一族もろとも滅ぼされてしまうことになりました。
しかし、皮肉なもので、後年建てられた、和田義盛のことを偲ぶ寺社や顕彰碑などは、北条義時や三浦義村のそれよりも明らかに多く、歴史上の勝者と人物の評価はまったく別物であるということを物語っています。(比較的信憑性の高い史料とされる「吾妻鏡」は、執権北条氏の視点で書かれた鎌倉時代の歴史書のため、フェアな評価とは言えません)
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