お寺の名前になっている安養院は、源頼朝の妻・北条政子の法名から名づけられたものです。安養院の本堂の裏手には、北条政子の墓と伝わる宝篋印塔が建っています。
安養院が建立された当初は、笹目ヶ谷(長楽寺ヶ谷)の現在の鎌倉文学館があるあたりにありましたが、鎌倉幕府滅亡後にもともとこの地にあった善導寺と、江戸時代初期にこの近くにあった田代寺と、統合してきた歴史をもっています。そのため、安養院は、これらの寺院にゆかりがある仏像や石塔などが安置されていて、今でもそれぞれの特色を見ることができます。
山号 | 祇園山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1225年(嘉禄元年) |
開山 | 願行 |
開基 | 北条政子 |
安養院は鎌倉でも指折りのツツジの名所として知られています。例年、4月下旬から5月上旬ごろに見ごろを迎えると、境内の中は言うまでもなく、境内の前を通る県道311号鎌倉葉山線(大町大路)沿いもオオムラサキツツジの目にも鮮やかな紫紅色で彩られます。
INDEX
源頼朝の正統な後継者と言える北条政子の墓
安養院の背後の山は、安養院の山号になっている「祇園山」と呼ばれています。安養院の近くの八雲神社から東勝寺跡・北条高時腹切りやぐら付近まで、祇園山ハイキングコース(2019年の台風15号・19号の被害により通行止めとなっていましたが、2023年4月1日より復旧、開通しています)が整備されています。
東勝寺は、北条氏の菩提寺であり、北条一族滅亡の地でもあります。
安養院を開いた北条政子は、鎌倉時代に栄華を極めた北条氏の繁栄を運命づけた人物です。北条政子が源頼朝に嫁いでいなければ、伊豆の小豪族であった北条氏が歴史の表舞台に出てくることはなかったでしょう。
しかし、北条政子が偉人として語り継がれているのは、「鎌倉殿の御台所」としての頼朝存命中ではなく、むしろ、頼朝の死後、「尼御台」「尼将軍」として幕府を運営した手腕によるところのほうが大きいです。後世に、当時の歴史上の出来事を俯瞰的に眺めると、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家、第3代将軍・源実朝の「鎌倉殿の母」というよりは、北条政子こそが源頼朝の正統な後継者であったように見えてきます。
時の執権であった北条政子の弟・北条義時追討の院宣が後鳥羽上皇によって発せられ、鎌倉幕府と朝廷との全面戦争となった承久の乱は、鎌倉幕府が迎えた幕府創設以来最大の危機でした。
北条政子が「頼朝の恩は山よりも高く、海よりも深い」のではないかと問うた演説は、動揺する御家人たちを一枚岩にして、幕府の勝利を導くことに成功しています。
北条政子が安養院を開いたのは、承久の乱から4年後の、政子が死没する年である1225年(嘉禄元年)のことです。
安養院の本堂の裏手には、北条政子の墓と伝わる宝篋印塔が建っています。
北条政子の墓と伝わるものは、扇ヶ谷の寿福寺にも残されています。寿福寺の墓の隣りには、北条政子の子である源実朝のものと伝わる墓も残されています。
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北条政子が源頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺
安養院の前身となる寺院は長楽寺と言い、1225年(嘉禄元年)に、北条政子が夫・源頼朝の菩提を弔うために建立しました。その後、長楽寺は、1333年(元弘元年)に、新田義貞の鎌倉攻めの兵火によって焼失してしまい、現在、安養院がある場所に移ってきました。
長楽寺があった場所は、現在、鎌倉文学館になっていて、長楽寺跡であることを示す石碑が建っています。また、鎌倉文学館の本館の玄関には「長楽山荘」という表札が掲げられていて、長楽寺旧跡の面影を見ることができます。
鎌倉最古の宝篋印塔とされる善導寺開山の尊観上人の墓
長楽寺は、現在の場所に移ってからは、北条政子の法名を名乗るようになり、安養院となりました。(現在も正式名称は、「安養院 長楽寺」です)
もともとこの場所には善導寺という寺院がありました。安養院の本堂の裏には、北条政子の墓と伝わる宝篋印塔と並んで、善導寺の開山の尊観上人の墓と伝わる宝篋印塔が建っています。この尊観上人の墓は1308年(徳治3年)に造立されたものです。造立年が分かっていて現存するものでは、鎌倉最古の宝篋印塔とされていて、国の重要文化財に指定されています。
「宝篋印塔」とは、墓塔や供養塔などに用いられる石塔の一形式です。同様の性格を持つ「五輪塔」と比べて、宝篋印塔は装飾が豪華で構成も複雑なのが特徴です。
坂東三十三観音の札所本尊は田代寺の田代観音
現在、安養院は、坂東三十三観音・鎌倉三十三観音霊場ぞれぞれの第3番札所になっています。安養院の本尊は阿弥陀如来ですが、観音霊場としては安養院に安置されている千手観世音菩薩を札所本尊としています。
この千手観音は別名「田代観音」とも呼ばれていて、この近くの、現在も妙本寺が建つ比企ヶ谷あたりにあった田代寺の本尊だったものです。田代寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期に源頼朝や源義経に仕えた武将・田代信綱が開いた寺院と伝えられています。
江戸時代に安養院が火災にあった際に、安養院はこの田代寺と統合されたため、田代寺の本尊であった千手観音(田代観音)も安養院に安置されています。
坂東三十三観音・第2番札所の岩殿寺(岩殿観音)とは、名越切通で結ばれています。
安養院境内の見どころ
山門
例年、4月下旬から5月上旬ごろにツツジが見ごろを迎えるころは、山門から本堂にかけての参道沿いが紫紅色の花々で彩られます。
本堂
日限地蔵
日限地蔵は、日を限ってお参りすると願いが叶うとされるお地蔵様で、鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたとされています。子授け、安産、育児のご利益もあると言われています。
尊観上人御手植えの槙
人丸墓
人丸は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・平景清(藤原景清)の娘です。右奥のものが元の墓石ですが、風化が激しいため、2012年に現在の墓石が造立されました。もともと小町にありましたが、開発のため、1955年(昭和30年)に安養院境内に遷されました。