円応寺(圓應寺)は、巨福呂坂洞門の北鎌倉側にある、閻魔大王を本尊とする「えんま様の寺」です。亡者が冥界において出合う十人の王「十王」を祀っていることから、「十王堂」とも呼ばれています。また、かつては、「新居閻魔堂」とも呼ばれていました。
円応寺は、建長寺の斜め前、鶴岡八幡宮から徒歩約10分ほどの場所にあります。ちょうど、JR横須賀線の北鎌倉駅と鎌倉駅の中間あたりに位置しています。
鎌倉時代前期の創建当初は、甘縄神明神社の裏山、鎌倉大仏の東側にあたる、見越ヶ嶽(御輿ヶ嶽)にありました。鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏が由比ヶ浜に移築しましたが、江戸時代の1703年(元禄16年)に発生した大地震と津波でお堂が倒壊したため、現在の建長寺の近くに移ってきました。
建長寺は、鎌倉時代前期の1253年(建長5年)に、かつて地獄谷と呼ばれた処刑場跡に創建された寺院です。このような歴史を持つ場所に、閻魔大王や十王を祀る円応寺がたどり着いたのは、運命づけられたものがあったのかもしれません。
山号 | 新居山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 閻魔大王座像 |
創建 | 1250年(建長2年) |
開山 | 智覚禅師 |
開基 | 不詳 |
円応寺の本尊・閻魔王坐像は、平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した仏師・運慶の作と伝わる仏像です。
瀕死となった運慶は、閻魔大王の前に引き出されます。そこで運慶は、閻魔大王に、生前の罪により本来は地獄に落ちるべきところを、自らの姿の仏像を彫り、その像を見た者が悪行を成さず善縁に趣くのであれば裟婆に戻すと言われました。こうして現世に生き返った運慶が彫刻した仏像が、円応寺の閻魔王坐像であると伝えられています。生き返ったことを喜んで彫ったため、閻魔王坐像の顔も笑ったように見えることから「笑い閻魔」と呼ばれています。
また、山賊から守るために赤ちゃんを飲み込んで保護し、その赤ちゃんが無事に成長したことから、「子喰い閻魔」や「子育て閻魔」と言った異名もあります。
円応寺の閻魔様の前で合掌し、懺悔文(閻魔王坐像の前に掲示されています)を心静かに三度唱えると、今まで犯した罪は全て許されると言われています。心当たりがある方は、お参りすると良いでしょう。
INDEX
閻魔大王をはじめとする十王を祀る閻魔堂
円応寺の本堂には、国重要文化財の閻魔王坐像を中心に、閻魔大王を取り囲むように十王の仏像が祀られています。十王とは、冥界において亡者の審判を行う十人の裁判官のような王のことで、七日ごとに七回と、百ヶ日、一周忌、三回忌の合計10回、それぞれの王の取り調べを受けます。
閻魔大王はその5番目の王にあたり、五・七日(35日)に、初七日から四・七日(28日)までのそれぞれの王が下した審理の結果をもとに、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のどこに生まれ変わるかを決定します。
六・七日(42日)から三回忌までの王は、閻魔大王の審理の結果を受けて、より具体的な指示や追加の審理などを受け持ちます。
円応寺の本堂内には、反時計回り(左回り)に初七日から三回忌までの十王が祀られていて、順にお参りすることができるようになっています。それぞれの王の仏像の前には丁寧な解説が添えられていますので、予備知識がなくても十王信仰について理解することができます。(国重要文化財に指定されている初江王坐像と倶生神坐像2体は、寄託されている鎌倉国宝館で拝観することができます)
十王信仰に凝縮されたコンパクトな円応寺の境内
円応寺の境内は、山門をくぐるとすぐ正面に本堂があり、本堂に続く参道の右手に鐘楼が見えます。一般の参拝者が拝観できるのはこの非常にコンパクトな空間のみで、円応寺の世界は本堂の十王に凝縮されているとも言えます。
山門
鐘楼
かつての巨福呂坂切通の入口にあたる円応寺
現在、円応寺の境内の前を走る鎌倉街道(県道21号横浜鎌倉線)の巨福呂坂洞門周辺は、明治期以降に開削された新道です。それ以前は、鎌倉七口の一つ、巨福呂坂切通(現在は通行不可)が建長寺(山ノ内)方面と鶴岡八幡宮(雪ノ下)方面とを結ぶルートで、円応寺はその建長寺側の入口付近にあたりました。
現在の円応寺の境内へは、鎌倉街道から急な坂を登る必要がありますが、巨福呂坂洞門の開削以前は、山門と水平な位置か、もう少し高低差の少ない場所に、巨福呂坂切通へ続く道が通っていたと考えられます。
円応寺(えんま様の寺)周辺の見どころ
山ノ内周辺(北鎌倉駅方面)
雪ノ下周辺(鎌倉駅方面)
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