鎌倉幕府の第二代執権であった北条義時は、鎌倉幕府を全国的な武家政権へと築き上げた武将です。また、北条一族が鎌倉幕府の権力を掌握するようになったのも、義時の時代からになります。
北条義時法華堂跡(北条義時墓)では、春には桜が、秋には紅葉が、ひっそりとではありますが、力強く色づきます。その姿は、義時の人生に重なるようでもあります。
INDEX
幕府創設者・頼朝の墓所と並ぶ義時の墓所
鎌倉幕府の初代将軍(鎌倉殿)であった源頼朝の死後、頼朝の妻・政子を姉に持つ北条義時は、父・時政とともに、第二代将軍である源頼家を補佐する「十三人の合議制」の一人になりました。その後、梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱、和田合戦と、次々と起こった政権闘争で常に中心人物の一人として関わり、幕府の有力御家人たちを排除していくことになります。畠山重忠の乱の後に発生した牧氏の変では、父・時政も鎌倉から追放して、北条一族内部においての地位もトップの座に上りつめました。
1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が義時に対して挙兵した承久の乱では、戦いに勝った幕府が敗れた朝廷側を完全に従属させることになり、鎌倉幕府は東国武士の頂点から名実ともに全国的な武家政権になりました。
1224年7月1日(元仁元年6月13日)、北条義時が死去すると、源頼朝の法華堂の隣りの山上を墳墓として、その中腹の平場に義時の法華堂が建立されました。鎌倉幕府を開いた源頼朝と並ぶように墓所が築かれたことからも、当時の義時の影響力の大きさが見て取れます。
この北条義時の墓は、源頼朝の法華堂跡とともに、「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」として国の史跡に指定されています。
近年の発掘調査の成果
北条義時法華堂の再現
北条義時の法華堂跡は、長い間、更地の平場に国の史跡を示す石柱と案内板がひっそりと建てられているだけでした。2005年の発掘調査と「吾妻鏡」の記述から、義時の法華堂は、幾度かの火災のたびに焼失と再建をくり返しましたが、13世紀末~14世紀初頭もしくは15世紀頃には廃絶したことが分かっています。
2021年12月現在の北条義時法華堂跡には、発掘調査でわかった建物の礎石や雨落ち溝の場所が、それぞれ、杭とロープで記されています。
北条義時が主人公の2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映にあわせて、スマートフォンのARアプリを使って、3DCGで復元した北条義時法華堂が見られるようになりました。
[利用手順]
① GooglePlayストアまたはAppStoreで「法華堂」(ほっけどう)で検索
② アプリ候補に出てきた「AR北条義時法華堂」をインストール
ARアプリで再現された法華堂とカメラが映し出す現実の世界とを組み合わせて、スクリーンショットを保存することで、記念撮影を撮ることもできます。
北条義時法華堂跡の出土品
事実上の鎌倉市の歴史博物館である鎌倉歴史文化交流館では、北条義時法華堂跡の発掘調査で出土した品が展示されています。(企画展による展示品の入れ替え等で、見られない可能性もあります)
北条義時法華堂跡の桜
北条義時法華堂跡にはヤマザクラの古木が、ポツンと1本だけあります。桜の木としては決して大きなものではないのですが、枝が真横に長くのびています。幹の近くに添木があるものの、か細い木がここまで真横にのびるものかと思うほどです。
きっと、できるだけ陽当たりが良い方角に枝をのばそうと、懸命に生きてきたのでしょう。
北条義時法華堂跡の紅葉
北条義時法華堂跡の平場の片隅には、かつて幕府があった方角に長く枝をのばすモミジの木が、ひっそりと立っています。桜の木と同じように、こちらも不自然なほど真横に枝をのばしています。
このモミジの木は、紅葉の見ごろが遅い鎌倉でも、最終盤に色づきます。
他の紅葉の名所の多くが見ごろを終えた後にひっそりと華やぐ様は、鎌倉幕府の熾烈な権力争いの結果、最後まで生き残ってトップの座に上りつめた北条義時の人生を映しているようでもあります。
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鎌倉時代初期における重要人物の墓の密集地帯
北条義時の法華堂跡の奥にある石段を登った先には、大江広元、毛利季光、島津忠久、各氏の墓があります。
また、北条義時の法華堂跡の西側の斜面のやぐらには、三浦泰村一族の墓があります。
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