鎌倉宮は、明治天皇の勅命によって創建された、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)を祀る神社です。護良親王は還俗する前は大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)と呼ばれていたことにちなんで、鎌倉宮も通称「大塔宮」と呼ばれることがあります。鎌倉宮の最寄りのバス停も「大塔宮」(読み方は「だいとうのみや」)という名前になっています。
鎌倉時代やその前後の時代まで歴史をさかのぼることができるような古社・古刹が多く残る鎌倉にあっては、明治初期に創建された鎌倉宮は「新しい神社」と言えます。
境内には、護良親王が9ヶ月に渡って幽閉されていたとされる土牢があり、拝観コースで見学することができます。(要拝観料)
また、鎌倉宮は、神苑のあじさいをはじめ、梅や桜(河津桜、ソメイヨシノ)、紅葉など、四季を通じて見どころが絶えません。
主祭神 | 護良親王 |
旧社格等 | 官幣中社 |
創建 | 1869年(明治2年) |
例年10月上旬に鎌倉宮の境内では「鎌倉薪能」(事前予約制)が催されます。「鎌倉薪能」は1959年(昭和34年)から行われている鎌倉を代表する伝統行事の一つです。
薪能は、夜の能楽堂などで、かがり火を焚いた幽玄な雰囲気のなかで演じられる能です。起源は平安時代に奈良の興福寺で催されたものとされ、昭和期以降には全国に広まりました。「鎌倉薪能」は全国で3番目に古い歴史があります。
INDEX
鎌倉宮の御祭神は護良親王
鎌倉宮の御祭神である護良親王は、武家政権であった鎌倉幕府を倒幕して、護良親王の父である後醍醐天皇を中心とする建武の新政(建武の中興)を成し遂げた功労者でした。
同じように武家政権から天皇を中心とする社会に変革する明治維新を実現した明治天皇は、深く敬慕する護良親王の功績をたたえて、親王の終焉の地である東光寺跡に鎌倉宮の造営を命じました。
境内社の村上社と南方社
鎌倉幕府倒幕に向けて、護良親王は奈良の吉野城で挙兵しましたが、鎌倉幕府軍に追い詰められてしまいます。このとき、護良親王の家臣である村上義光が親王の鎧をまとって、身代わりとなり切腹しまし、親王は逃れることができたと言います。
拝殿の右横に建つ村上社は護良親王を救った村上義光を御祭神として祀っていて、その社殿の前には「撫で身代わり様」と呼ばれる、自分の身体の具合が悪い場所を撫でると良くなるという、村上義光のエピソードにあやかった等身大の木造があります。
一度は窮地を救われた護良親王も、二度目は生き延びることができず、囚われの身となった親王は鎌倉へ送られ、二階堂にあった東光寺(鎌倉宮が建つ場所にあった、現在の横浜市金沢区にある東光禅寺の前身の寺院)で最期を迎えます。
このとき、護良親王の身のまわりの世話や親王の最期を見届けて、親王の父である後醍醐天皇に報告したとされるのが南御方です。
本殿の左前方に建つ南方社では、その南御方を御祭神として祀っています。
護良親王の亡骸は、鎌倉宮からもほど近い、理智光寺の山に葬られました。理智光寺は廃寺となり残っていませんが、現在は宮内庁の管理で親王の墓所だけが残っています。
また、護良親王の子とされる日叡が再興した妙法寺の山上にも、日叡が両親を弔うために建立したと伝わる護良親王の墓があります。
9ヶ月に渡って護良親王が幽閉されていた土牢
建武の新政が開始されると、護良親王は、後醍醐天皇との関係も良好で、鎌倉幕府倒幕の功労者の一人であり武将として勢力を増す一方の足利尊氏は対立するようになります。これに皇位継承の争いもからみ、無実の罪を着せられた護良親王は父である後醍醐天皇によって捕らえられ、足利尊氏に引き渡されてしまいます。
足利尊氏の弟の直義の監視下に置かれた護良親王は、鎌倉の東光寺の土牢に幽閉されます。
護良親王はこの土牢に9ヶ月幽閉された後、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児・北条時行を擁立して鎌倉幕府を再興しようとした中先代の乱の混乱に乗じて殺害されてしまいます。
護良親王の最期は、東光寺の書院で写経中に足利直義に殺害されたとも、足利直義の命を受けた淵辺義博によって土牢で殺害されたとも、伝わります。
鎌倉宮の本殿の裏手には、護良親王が幽閉されていたとされる土牢が残されています。拝殿や本殿より後方にある土牢や神苑、宝物殿の参拝は、別途拝観料が必要です。拝殿の左手にある拝観コース入口から入り、土牢、神苑、宝物殿という順番で、自由に参拝することができます。
鎌倉宮の鎮守の杜「神苑」
拝観コースで土牢の次にまわるのが神苑になります。鎌倉宮の鎮守の杜のような存在で、さまざまな樹木が植えられています。2021年に、約50年ぶりに大規模な整美が行われました。
神苑の森林の中には、いくつかの石碑や史跡などがあります。
鎌倉宮碑
明治天皇が鎌倉宮を創建する際に、太政大臣・三条実美に語られたお言葉が刻まれている石碑です。
御構廟(御首級)
足利直義に命じられて護良親王を殺害した淵辺義博が、この場所に親王の首級(討ち取った首)を置いて逃げ去ったと伝わる場所です。
教育勅語・五箇条の御誓文の碑
上皇陛下(当時の皇太子殿下)ご成婚を祝して建立された石碑です。
紫陽花
鎌倉宮の神苑ではヤマアジサイやホンアジサイが植栽されています。初夏には、神苑の散策路を鮮やかに彩ります。
▼その他の鎌倉のあじさいの名所はこちら▼
宝物殿はかつての明治天皇行在所
拝観コースで神苑を抜けた先にあるのが宝物殿です。
宝物殿ではかつて明治天皇行在所として使われた建物で、護良親王ゆかりの品など宝物が展示されています。
宝物殿までが拝観コースとなっていて、拝観コースの出口を抜けると社務所などがある場所に出ます。
梅と桜の季節の鎌倉宮
鎌倉宮では拝殿の周辺などで梅や桜が見られます。まだ若木ですが、早咲きの初春桜・如月桜(河津桜)も植えられています。
梅
手水舎横の「将軍梅」は、鎌倉宮の御祭神・護良親王の弟・懐良親王(かねよししんのう/かねながしんのう)お手植えの梅から実生したと伝わるものです。懐良親王は幼いころに征西大将軍に任命されたため、九州を拠点としていました。この「将軍梅」も、九州・八代から移植されたものです。
▼その他の鎌倉の梅の名所はこちら▼
初春桜・如月桜(河津桜)
鎌倉宮の早咲きの河津桜は、一の鳥居横の桜が「初春桜」、二の鳥居横の桜が「如月桜」と名付けられています。「初春桜」は、左側のほうがより早咲きで、例年、1月に見ごろを迎えます。右側のほうは、例年2月に見ごろを迎えます。「如月桜」は、その名のとおり、2月に開花します。
ソメイヨシノ
▼その他の鎌倉の桜の名所はこちら▼