横須賀中央駅は、横須賀市東部にある、京急本線の駅です。三浦半島最大の繁華街にあり、三浦半島の京急線の駅ではもっとも乗降客数が多い駅です。同じ「横須賀」を冠するJR横須賀線の横須賀駅とは、利用者は6倍以上の大差があり、横須賀中央駅こそが横須賀の表玄関といえます。
東口の目の前には「Yデッキ」と呼ばれるペデストリアンデッキがあり、この下から横須賀のメインストリートである横須賀中央大通りが続いています。西口には、駅ビルのように隣接している商業施設「横須賀モアーズシティ」がそびえています。その裏はすぐに丘陵地で、西口前からはそこを登る平坂が続いています。
東口と西口には、それぞれシンボルツリーとして、メタセコイアとミモザが植えられています。いずれも大木といえるものです。このうち、東口のメタセコイアは冬にイルミネーションが施され、横須賀中央駅の冬の風物詩として親しまれています。

「横須賀中央」や「中央」という正式な地名はありませんが、駅周辺地域の下町地区(若松町や大滝町)の通称として、「横須賀中央」や「中央」という名称が一般的に使われています。地元の人はたいてい「中央/ちゅうおう」と呼びます。地元以外の方は「横中/よこちゅう」と略す場合があるようですが、地元では「中央/ちゅうおう」一択です。
横須賀中央駅の開業は、京急の前身の一つである湘南電鉄が横浜の黄金町駅と浦賀駅の間を開通させたのと同時の、1930年(昭和5年)4月1日のことです。この当時は「横須賀中央」や「中央」という呼び名は一般的ではありませんでした(大正~昭和初期に発行された横須賀市の案内本などで、下町地区のことを地名として「中央」と呼ぶ例は皆無です)。このあたりは、駅の横から続いている平坂にちなんで、「平坂下」などと呼ばれていました。
横須賀中央駅開業以前の横須賀市街地の「中央」は、横須賀軍港の門前町とも言える現在の本町周辺で、「平坂下」はどちらかというとまだ町外れにあたりました。1889年(明治22年)に開業していた鉄道省(後の国鉄、現在のJR東日本)の横須賀駅も、横須賀軍港方面にありました。
とは言え、1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興事業の影響もあり、市街地の重心は横須賀軍港方面から「平坂下」方面に移りつつあったのも事実であり、将来の発展の期待も込めて、また、下町地区に対して新興の市街地であった「平坂上」(現在の上町周辺)を含めたエリアの「中央」として、「横須賀中央駅」と名づけたものと考えられます。
](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2026/09/937a0bdf56215974d0c0f20552013fdf-1200x800.jpg)
三浦半島の京急線の歴史を語るうえで有名な話として、京急久里浜駅や三崎口駅方面への延伸は、現在のように堀ノ内駅から分岐する内陸ルートではなく、当初は浦賀駅から海沿いに南下するルートで延ばす計画だったという逸話があります。
しかし、それ以前の、湘南電鉄が黄金町駅~浦賀駅間を開通させる際に、当初は横須賀中央駅はおろか横須賀市の中心市街地である下町地区すら通らないルートで計画されていたという話は、あまり知られていません。
地元の老舗デパート「さいか屋」創業家の岡本良平氏が自身の父について記した「岡本伝之助随想録」の中に、以下のような記述があります。
三浦半島開発の目的で横浜市の黄金町から金沢経由横須賀の逸見に至りさらに坂本、衣笠を経て浦賀までを第一期とし、次に第二期工事は浦賀から久里浜、北下浦を経て三崎まで延長し、第三期として三崎から三浦半島の西側を武山、大楠、葉山、逗子、金沢へと繋ぐ循環線を造る計画で湘南電気鉄道株式会社(資本金一二〇〇万円)を創立することになった
「岡本伝之助随想録」(岡本良平編 さいか屋, 1984)
(中略)
そこで保善社の方を探ってみると当時は結城豊太郎氏が安田財閥の代表者であったが、故安田善次郎翁が造った安浦町が良くなることであればそのくらいの出資は引き受けるが、これには二つの条件があるということであった。その条件というのは、第一は安浦町の近くに駅を設けること、従って当初の路線を変更し比較的トンネルが多く工費が嵩む逸見、汐入、平坂下、田戸、堀の内、大津という路線にすること、第二は安田から主要役員を出しこれにほとんど全権を任せるということであった。そこで種々の曲折があったが従来の発起人の間で協議の結果、何としても会社を設立し事業の実現か期さねばならず、しかも事業の性質上資金も相当多額となり、株の方は全額払込までには年月がかかるので止むを得ず保善社の申し込みを丸呑みにして受け入れることとなった。
(中略)
いずれにしても、もし湘南電鉄が安田の援助なしに創立していたならば、その路線は国鉄久里浜線と同じく坂本、衣笠を経て吉井の辺から浦賀に入ったということになったのである
「保善社」というのは、かつての日本の四大財閥の一つ「安田財閥」の中核企業である「安田保善社」(現在の安田不動産)のことです。大正前期に横須賀中央エリアに隣接する安浦町の埋め立て事業に関わるようになり、横須賀に地盤を持つようになっていました。
湘南電鉄設立時、横須賀を代表する実業家としてさいか屋の岡本伝之助に協力を求められましたが、第一次世界大戦後の不況や関東大震災の復興でそれどころでなく、安田保善社に白羽の矢が向けられるようになったという話です。
そこで、安田保善社は、見返りの一つとして、自らが開発した安浦町の近くに駅を設けること(現在の県立大学駅。かつての京浜/京急安浦駅、横須賀公郷駅)という条件を示しましたが、この話が通らなければ、今の京急本線は、逸見~坂本~衣笠~吉井~浦賀というルートを辿ることになっていて、京急本線の横須賀中央駅は誕生していなかったというのです。
](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2026/09/2a7b52c0f2e081ccd8fec12971c70871-1200x800.jpg)
当初の計画通り湘南電鉄が開通していたら、現在の横須賀中央エリアへの鉄道の開通は大幅に遅れていたか、最悪、鉄道の空白地帯となっていた可能性も考えられます。
けれども、現実的に考えれば、横須賀市の中心市街地である以上、なんらかの方法で鉄道は敷かれることになったはずです。
たとえば、前述の京急久里浜線の例のように、逸見駅あたりから分岐する支線として「横須賀中央線」が敷かれることになったかもしれません。その場合、現在の京急久里浜線のように、こちらが本線扱いとなり、既存の線区は優等電車がほとんど走らない現在の堀ノ内駅~浦賀駅間のような扱いになっていたことでしょう。
あるいは、現在のJR横須賀線が横須賀駅から海沿いに延伸して、「横須賀線の横須賀中央駅」が誕生していたかもしれません。実際に、明治時代に開通した当初、横須賀線では、下町地区を経由して観音崎まで延伸する計画を持っていました。この計画は、すでに下町地区に繁華街が形成されていたことなどによって実現しませんでしたが、その後の関東大震災による再開発や海岸線の新たな埋め立てによって、見直しの機会は持てたはずです。
もし「横須賀線の横須賀中央駅」が誕生していたとしたら、京急線が圧倒的優位という、今の横須賀における京急線と横須賀線の優劣は、また違っていたものになっていたことでしょう。

