能見堂は、正式名称を擲筆山地蔵院と言った寺院で、1869年(明治2年)に火事にあった後は、再建されることがありませんでした。能見堂が建っていた場所は標高75mほどの高台の、江戸時代には、東海道の保土ヶ谷宿と浦賀を結ぶ浦賀道(六浦以北は別名・金沢道)や鎌倉・江の島へ通じる観光ルートの道すじにありました。人々が行き交う街道沿いにあったことに加えて、この場所から見る景色が素晴らしかったため、能見堂は多くの人が立ち寄る、人気の観光スポットでもありました。
現在も駅名などで見られる「金沢八景」という名称はこの能見堂から見る景色に由来していて、中国の景勝地・瀟湘八景にならって金沢村(現在の横浜市金沢区)周辺の美しい風景8か所を選んだものをこのように呼ぶようになったと言われています。そのことを示すように、能見堂跡には、江戸時代に建てられた「金沢八景根元地」の石碑が、今も残っています。
能見堂から見る金沢八景の景色は、徳川家康も江戸城の襖絵に描かせたほどお気に入りで、その後も、歌川(安藤)広重をはじめとした絵師や文人、墨客が題材にするなどして人気は広まり、江戸時代を通じて賑わいを見せていたようです。
INDEX
「能見堂」の名前の由来
「能見堂」の名前の由来には諸説あります。景色が能く(よく)見えるから、平安時代の絵師・巨勢金岡がここからの景色を描こうとしたけれどあまりの美しさと潮の満ち引きの変化のため描けず「のけぞった」から、地蔵を本尊としていたため六道能化の意味から取った、などの説があると言います。
周囲の「能見台」という地名や、京急線の「能見台駅」の名前は、この場所に能見堂があったことに由来します。能見台は昭和後期に京急が中心となってこの辺り一帯を宅地開発する際に生まれた地名で、能見台駅も1982年(昭和57年)までは「谷津坂駅」という別の名前でした。
能見堂は、1869年(明治2年)に火災にあった後は再建されることなく廃れてしまったため、その起源などの詳しい歴史はあまり分かっていません。江戸時代に書かれた「能見堂縁起」によると、平安時代の公卿・藤原道長が結んだ草庵がはじまりとされています。その後、廃れた時期もあったようですが、江戸時代の寛文年間(1661年~1673年)に、大名・久世広之が江戸の増上寺で廃院になった地蔵院をこの場所に移して、擲筆山地蔵院として再建したものが、江戸時代に賑わいを見せた寺院としての能見堂のはじまりとされています。
また、かつて、能見堂には筆捨松という巨木があり、シンボルツリーになっていました。
「筆捨松」という名前は、「能見堂」の名前の由来の一つにも登場した絵師・巨勢金岡が、ここからの景色を絵に描こうとしたけれど、描けないほど素晴らしかったため筆を捨てたという逸話が元になっています。
現在の能見堂跡にはお堂や筆捨松は残っておらず、その仏堂などが建っていたと想定される平場に、山の上にあったため貴重な水源として使われていたと思われる井戸の跡と、「能見堂」と記された金沢八景根元地の碑をはじめとしたいくつかの石碑だけが、ひっそりと残っています。
各時代の巨匠に愛された能見堂は「金沢八景」発祥の地
海岸の埋め立てや宅地開発によって、現地で往時の姿を想像することは難しいですが、能見堂から見る景色がさぞ美しかったであろうことは、江戸後期の浮世絵師・歌川広重が描いた「金沢八景」を見れば想像できます。
また、歌川広重に強い憧れを抱いていた近代日本画の巨匠・鏑木清方は、大正期にこの地を訪れて、「金沢八景」に別荘を構えるようになりました。
この景色の素晴らしさは江戸時代より以前から知られていたようですが、江戸時代初期の中国からの渡来僧・心越禅師が祖国の景勝地・瀟湘八景にならって金沢村周辺の8か所の景色を漢詩に詠んだことが「金沢八景」の名が広まるきっかけだったとされています。
しかし、この能見堂からの景観も、江戸時代前期からはじまった泥亀新田(現在の京急線・金沢文庫駅から金沢八景駅の間にかけての地域)の開発を発端に、現在の平潟湾から内陸の奥深くまで入り込んでいた大きな入江は埋め立てられて、大きく変化していくことになりました。1970年代以降には、現在の海の公園や八景島があるあたりも埋め立てられて、海岸線はさらに沖の方へと遠のいていきました。
能見堂の美しい景色も賑わいも失われてしまいましたが、その代わりに、金沢八景・金沢文庫エリアに新たな魅力や賑わいが生まれたことも事実で、これも、長い歴史の中でまちが発展して持続していくために必要な新陳代謝なのかもしれません。
横浜金沢エリア屈指の梅の名所
現在の能見堂跡の平場周辺には、たくさんの梅の木が植栽されています。梅林とまでは言えませんが、横浜金沢エリア屈指の梅の名所になっています。
初春の梅の開花の時期は、能見堂跡を含む、六国峠ハイキングコースをたのしむのには最適な季節と言えます。
能見堂跡の周辺は能見堂緑地として自然が保全されていて、能見堂跡の平場以外にも、いくつかの広場や不動池と呼ばれる池などが整備されています。公衆トイレは、能見堂跡からもほど近い不動池にあります。
能見堂ゆかりの人物の石碑・墓碑
また、能見堂跡の平場周辺にはいくつかの石碑も建っています。江戸時代から変わらずにこの場所にあるのは金沢八景根元地の碑だけですが、他のいずれも能見堂にゆかりのある石碑や墓碑で、そのいわれは現地の案内板で詳しく見ることができます。
武蔵国金澤碑 | 江戸時代中期から後期にかけての儒者・岡部四溟が当時荒れ果てていた金沢文庫を訪れた際、人の造ったものは荒廃するが、自然の美しさは永遠であると気づかせてくれた能見堂からの景色に感銘を受けて建立したという碑です。 |
江耆楼美山句碑 | 江戸の吉原遊郭の主人・美山による、「百八の鐘の別れやほととぎす」という句が刻まれた句碑です。 |
一方句碑 | 詳細は不明な人物・一方による、「露落てなを静也峯の月」という句が刻まれた句碑です。 |
山室宗珉居士墓碑 | 江戸の医者・鈴木宗珉の墓で、生前の1731年(享保16年)にこの近くに墓を建てて、1771年(明和8年)に亡くなると、この墓に葬られました。宗珉は能見堂からの景色を愛していたと言います。 |