甘縄神明神社は、奈良時代に行基が草創したと伝わる、鎌倉市最古の神社で、長谷の鎮守です。昭和初期までは「甘縄神明宮」という名前だったため、現在でもそのように呼ばれることがあったり、略して「甘縄神社」と呼ばれることもあります。
創建当初は、山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺が建立され、後に寺号を甘縄院としたと伝わります。
これを創建したのが、藤原氏の始祖・藤原鎌足の子孫で、奈良時代に鎌倉を治めていたと言われる、染屋太郎時忠(染谷太郎時忠)です。染屋時忠は「鎌倉の始祖」とも言われるような豪族でしたが、詳細な記録は残っていません。
明治維新の神仏分離により、別当寺の甘縄院は廃寺となり、現在は甘縄神明神社のみが残っています。
主祭神 | 天照大御神 |
旧社格等 | 旧村社 |
創建 | 710年(和銅3年) |
祭礼 | 3月26日 祈年祭 9月7日 例大祭「假屋祭」 9月14日に近い日曜 例大祭「神幸祭」 9月14日 例大祭「式典」 11月26日 新嘗祭 ※実際の日にちは年によって異なる場合があります |
鎌倉の地で長い歴史を持つ神社とあって、甘縄神明神社には、奈良時代に編さんされたと考えられている万葉集の歌碑、平安時代後期に活躍した武将・源義家や、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗など、時代を超えて、その時代を象徴するような文化や有力者にまつわる伝承が残っています。
INDEX
源義家生誕の伝説
平安時代中期、河内源氏第2代棟梁・源頼義は、関東で起きた平忠常の乱の平定に大きく貢献しました。相模守となった源頼義は、鎌倉を本拠地としていた平直方から屋敷や所領を譲り受けて、河内源氏の東国支配の拠点としました。これに前後して源頼義は平直方の娘をめとり、源義家(八幡太郎)が産まれています。
このとき、源頼義が義家の誕生を祈り、産まれた場所が、甘縄神明神社だと伝えられています。
このような源氏ゆかりの古社であったことから、源義家の4代後に当たる源頼朝や北条政子も、鎌倉に幕府を開いた後、たびたび参拝に訪れています。
消えた甘縄の地名と安達盛長邸
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、源頼朝の側近だった安達盛長が、甘縄に住んでいたことが描かれています。
現在の鎌倉市の住居表示では、「甘縄」という地名は存在しません。「吾妻鏡」によれば、中世の「甘縄」は、東は若宮大路、西は佐々目谷(笹目ヶ谷)あたりまでの、かなり広範囲なエリアを指していたようです。これは、およそ、現在の、由比ガ浜、御成町、笹目町と長谷の一部(鎌倉駅から長谷駅にかけての江ノ電沿線エリア)に相当します。
甘縄神明神社の境内には安達盛長邸跡を示す石碑が建っていますが、近年の研究では、御成町の今小路西遺跡のあたり、もしくは、現在、鎌倉歴史文化交流館が建つ無量寺谷(無量寿院跡)のあたりにあったとする説が有力なようです。無量寺谷の住所は源氏山公園の東側周辺の扇ガ谷(扇ヶ谷)にあたります。もし無量寺谷に安達盛長邸があったとするならば、中世の「甘縄」は、現在の扇ヶ谷の一部までも含んでいたことになり、南北方向にもかなり広かったことになります。
なお、安達盛長邸跡を示す石碑は、大正時代に、当時の鎌倉町青年団によって建てられたものです。少なくとも近世以降、「甘縄」という地名は甘縄神明神社にしか見られなくなっていたため、ここが安達盛長邸跡であると考えたのも無理はありません。
北条時宗産湯の井戸
しかし、甘縄神明神社の側に、安達氏に関係する邸宅があった可能性は高いようです。
鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は松下禅尼邸で産まれていて、その場所がこのあたりだとされています。甘縄神明神社の境内には、北条時宗産湯の井戸とされる場所が残っています。
松下禅尼は、鎌倉時代前期から中期にかけて活躍した武将・安達景盛の娘(安達盛長の孫)で、鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男・北条時氏の正室です。松下禅尼が産んだ経時、時頼が、第4代、第5代執権となったことから、安達氏は執権北条氏の外戚として、その地位を急速に高めていました。
北条時宗の誕生は、まさに安達氏の全盛期とも言える時代のことでした。時宗の正室(堀内殿、安達義景の娘)もまた、安達一族から嫁がせています。
北条時宗が執権の時代は、二度にわたる元寇(文永の役、弘安の役)があり、その前後の対応も含めて、後世の評価が分かれる人物でした。時宗は非常に信仰深かったことでも知られていて、元寇の殉死者を敵味方の区別なく平等に供養するために、円覚寺を創建しています。
なお、この北条時宗産湯の井戸とされる場所が後の創作であれば、松下禅尼邸も甘縄神明神社の側ではなく、安達盛長から続く安達氏代々の邸宅があったとされる今小路西遺跡または無量寺谷(無量寿院跡)にあった可能性も考えられます、
甘縄神明神社の社殿
源氏代々の棟梁からあつい崇敬を受けた甘縄神明神社は、源義家や源頼朝によって社殿の修理を受けています。現存する社殿はその時代のものではありませんが、小規模ながらも格式高い古社の雰囲気を感じ取ることができます。
拝殿
本殿
境内社・秋葉神社
境内社・五所神社
五所神社は、1887年(明治20年)に、甘縄神明神社に合祀されました。
御神輿収納庫
甘縄神明神社の例大祭は、9月7日~11日で、神輿は例年、9月の第2日曜日に長谷の町内を練り歩きます。
万葉集にも詠まれた甘縄神明神社裏の「みこし」山
甘縄神明神社には、明治維新の神仏分離により廃寺となるまで、甘縄院という臨済宗の別当寺(神社を管理するための寺院)がありました。甘縄神明神社の境内の外れには、かつての甘縄院のものと考えられる、石仏や石塔が残されています。
甘縄院は山号を神輿山と言いました。古くから甘縄神明神社の背後の山は神輿山や御輿ヶ嶽、見越ヶ嶽などと呼ばれていたようです。
現存する日本最古の和歌集「万葉集(萬葉集)」には鎌倉に関連する歌が3首または4首含まれていると言われていますが、その1首が、この神輿山や御輿ヶ嶽、見越ヶ嶽などと呼ばれた「みこし」について詠まれた歌とされています。
鎌倉の見越の崎の石崩の 君が悔ゆべき心は持たじ
このような縁から、甘縄神明神社の境内には、この万葉集の歌碑が建っています。
なお、万葉集の「見越の崎」は、石崩(岩崩)という描写が現在の様子からも連想できる、稲村ヶ崎とする見方もあります。
甘縄神明神社で見られる春の花々
甘縄神明神社の境内では、春になると、桜やオオアラセイトウの花が一斉に開花します。
桜は、鎌倉原産で早咲きの玉縄桜と定番のソメイヨシノが植えられています。例年、玉縄桜は2月中旬~下旬、ソメイヨシノは3月下旬に見ごろを迎えます。玉縄桜とソメイヨシノの花は良く似ていますので、一方が玉縄桜だと知らないと、ソメイヨシノが時期を変えて二回開花しているように思えるかもしれません。
境内のいたるところで見られるオオアラセイトウは、別名:ショカツサイ(諸葛菜)やムラサキハナナ(紫花菜)とも呼ばれる、小さな紫色の花が印象的な花です。
玉縄桜
ソメイヨシノ
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