正続院は、円覚寺に20か院近くある塔頭の1院で、円覚寺開山の無学祖元禅師(仏光国師)の塔所です。正続院境内の一番奥に、無学祖元を祀る開山堂が建っています。
(「塔頭(たっちゅう)」とは禅宗寺院の境内またはその周辺に建つ付属の小寺院のことで、厳密には、宗派の開祖や代々の住持、高僧の墓塔のことです)
円覚寺は観光客などにも広く開放している拝観寺院ですが、その中でも正続院一帯は「円覚寺専門修行道場」という位置づけの円覚寺一番の聖地とされる場所です。
そのため、通常は非公開ですが、正続院境内に建つ舎利殿が、例年、正月3ヶ日・GW・11月上旬の円覚寺宝物風入にあわせて特別公開される際に正続院の門も一般参拝者向けに開かれて、境内を見学することができます。
山号 | 万年山 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 文殊菩薩騎獅半跏像 |
創建 | 1285年(弘安8年) |
開山 | ― |
開基 | 北条貞時 |
正続院は鎌倉二十四地蔵尊霊場(鎌倉二十四ヵ所地蔵めぐり)の第十三番札所になっています。正続院は通常非公開のため、鎌倉二十四地蔵尊霊場のご本尊・手引地蔵を直接拝観することはできませんが、御朱印は総門近くの売店で受け付けています。
正続院に整備された円覚寺専門修行道場
もともと円覚寺の修行道場としては選仏場(仏殿の左手)がありました。江戸時代後期に、正続院に禅堂が建てられてからは、正続院一帯が修行道場になりました。選仏場は現存していますが、これ以降は、修行道場としてはあまり使用されなくなったと言います。
鎌倉時代から創建後しばらくの円覚寺境内は、その全域が修行道場と呼べる場所でした。鎌倉時代から室町時代にかけては、鎌倉五山の第二位に列せられるなど、格式の高い寺院として鎌倉の内外に認められる存在でした。しかし、江戸時代にもなると、創建当初からの円覚寺の古い教えは廃れていくようになったと言います。これには、円覚寺境内に塔頭が増えたことによって、塔頭それぞれの独自色が強まったことが背景にあったとも言われています。
そこで、無学祖元を祀る開山堂の建つ、円覚寺一番の聖地であるこの場所に禅堂が建てられて、伝統的な修行を復活させる改革が進められることになりました。この円覚寺の再興を成功に導いたのは、まだ若かった青年僧・誠拙です。その苦労は大きかったようですが、誠拙は生涯をこの円覚寺再興に捧げ、無学祖元の再来と称されるまでになったと伝えられています。
正続院境内に建つ一撃亭も、老師の住まいとして、誠拙によって建てられたものです。(現在の建物は、関東大震災による倒壊後に建て直されたものです)
円覚寺開山の無学祖元を祀る正続院・開山堂
正続院は、お釈迦様の歯の遺骨である「佛牙舎利(仏舎利)」を祀る舎利殿のために建立された「祥勝院」という寺院が前身と伝えられています。そこへ、建長寺内にあった無学祖元を祀る塔頭・正続庵を遷して、名前も「正続院」と改めたと言います。
無学祖元は、南宋(当時の中国)出身の僧で、1279年(弘安2年)に、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の招きに応じて、建長寺の住持となるために来日しました。時宗は禅宗に深く帰依するなど信仰心にあつく、建長寺の開山・蘭渓道隆亡き後も、兀庵普寧や大休正念といった蘭渓道隆と同じ南宋出身の僧に教えを請いました。
無学祖元の逸話として有名なのが「臨刃偈」や「臨剣の偈」などと呼ばれる「偈(げ)」を詠んだという話です。偈とは、詩句の形式で思想や感情を表現したものです。南宋での修業時代、南宋に元軍が侵攻してきて、無学祖元も兵軍に取り囲まれてしまいました。無学祖元は元軍の兵士に刀を突き付けられましたが、少しも動じることなく「臨刃偈」を詠み、兵士は詫びてその場を去ったと言います。
乾坤、孤筇を卓つるに地無し。
円覚寺 一口法話
喜得す、人空法亦空なるを。
珍重す、大元三尺の剣、
電光影裏、春風を斬る。
無学祖元は、来日後にも、今度は日本で元軍の襲来(元寇、弘安の役)を受けます。戦後、北条時宗は、災いや戦乱をしずめ国の平安をまもることと、元寇による殉死者を敵味方の区別なく平等に供養するために、無学祖元を開山として円覚寺を創建しました。それから4年後、無学祖元は建長寺で亡くなりました。
はじめ、無学祖元は建長寺に葬られ、塔所も建長寺境内に建立されました。その後、鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)に、後醍醐天皇の命により、無学祖元の孫弟子にあたる夢窓疎石によって、円覚寺境内に遷されました。
無学祖元を祀る開山堂は舎利殿のすぐ裏にあり、舎利殿は開山堂に礼拝するための昭堂も兼ねています。開山堂の裏山には無学祖元の墓があり、命日の法要・開山忌では円覚寺の住職によってお参りされています。
その他の正続院境内の見どころ
唐門
舎利殿の正面に建っています。軒下の彫刻が素晴らしいです。