円通寺(圓通寺)は、三浦氏宗家(本家)の初代とされる三浦為通(村岡為通)が開いた寺院です。三浦一族代々の当主が居城としていた衣笠城からもほど近い、旧大矢部村深谷(現在の横須賀市大矢部2丁目)にありました。大矢部には三浦一族ゆかりの寺院が複数あったことが知られていますが、円通寺はその中でも最古級の寺院と考えられ、横須賀における三浦一族の原点とも言えるような場所です。
円通寺の裏山斜面には、三浦為通のものを含む、三浦一族の墳墓とされる「やぐら」(主に中世に造られた横穴式の墳墓または供養の場)群が残されています。20穴以上からなるその墳墓は、この場所の地名から「深谷やぐら群」と呼ばれていて、三浦一族の墳墓としても最大規模のものがあったと考えられます。
円通寺は、江戸時代後期の1839年(天保10年)にお堂が村民に売り払われたため、現在は廃寺となっています。その後、旧円通寺の本尊・滝見観音は、近隣の清雲寺(大矢部5丁目。江戸時代には円通寺は清雲寺の末寺となっていました)に移されています。
1939年(昭和14年)には、円通寺跡と深谷やぐら群一帯が旧日本軍の用地となり、三浦為通の墓とされる五輪塔をはじめとした深谷やぐら群の遺物の多くも、清雲寺に移されました。
| 山号 | 深谷山(深谿山) |
| 宗派 | 臨済宗 ※室町時代に天台宗から改宗 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 滝見観音 ※現在の清雲寺の本尊 |
| 創建 | 平安時代後期 |
| 開山 | 不詳 |
| 開基 | 三浦為通 |
円通寺のあった深谷の谷戸は、戦後、海上自衛隊の横須賀弾薬整備補給所大矢部弾庫として使用されてきました。その後、大矢部弾庫は、自衛隊の整理・統合により、2003年に田浦地区へ移転しました。
東京ドーム約4個分という広大な土地を持つ大矢部弾庫跡地は、2024年に国から横須賀市に譲与されることが決定し、横須賀市によって「大矢部みどりの公園」として整備される予定です(2028年4月開園予定)。
三浦半島に点在していた旧軍施設の跡地によくある話ですが、宅地化などの大規模な開発の手を免れて、長い間立ち入りが制限されてきた場所であるため、大矢部弾庫跡地は近代以前の環境が比較的良好な形で残っています。「大矢部みどりの公園」は、この緑豊かな自然と三浦一族ゆかりの史跡という立地をいかし、これに市民交流や防災拠点を兼ね備えた機能を持つ都市公園となることが計画されています。

INDEX
隧道弾庫の遺構が生々しく残る 大矢部弾庫跡地

大矢部弾庫は、「深谷」という地名(小名)が示す通り、南北に長くのびるメインの谷戸と、さらにそこから左右にのびる支谷からなる山間の、深い谷が織りなす複雑な地形にありました。
「谷戸」は三浦半島を代表する地形で、半島南部を除いてどこでも見られるものですが、これだけの規模で大きな開発をされず残っているのはめずらしいです。それが、ここに軍事施設が置かれていたためというのは、なんとも皮肉な話ではあります。
東京湾の入口にあたる横須賀には、明治時代以降、横須賀軍港の中心的施設であった横須賀海軍工廠(横須賀製鉄所、横須賀造船所が前身)や、首都や横須賀軍港を防衛する目的で建設された陸軍の東京湾要塞(猿島砲台や千代ヶ崎砲台、他)など、旧日本軍の施設が数多く置かれました。
当初、軍の施設は沿岸部を中心に設置されていきましたが、より広い土地やその施設に適した土地を求めて、内陸部にも置かれるようになっていきました。大矢部弾庫(の前身施設)も、そのような時代に造られた施設の一つです。
軍事施設のため、設置の経緯や利用状況など、とくに戦前・戦中の詳細は明らかになっていません。市街地化されていない広い土地だったことに加え、山に囲まれ、入り組んだ谷戸の地形が、弾薬を隠して保管しておくのに適していたため、この場所が弾薬庫として利用されてきたものと考えられます。
現在、大矢部弾庫跡地の谷戸の斜面には、コンクリートで蓋の閉められた隧道弾庫跡が、3ヵ所確認できます。これらがいつ建設されたものなのかは分かりませんが、万が一の事故の際に被害を最小限に抑えることができることや、航空機からの秘匿や空襲による被害を防ぐ目的で、トンネル状の弾薬庫が造られたのでしょう。
戦後すぐに米軍によって撮影された空中写真では、倉庫か工場とみられる大型の建築物が、この谷戸の中に20棟程度建ち並んでいる様子を確認することができます。
これらの施設は戦後取り壊され、海上自衛隊の施設となっていた昭和後期の空中写真では、建築物は倉庫とみられる大型のものがごくわずかに確認できる程度です。その代わり、隧道弾庫や倉庫とみられる建築物の手前には、大型のバンカー(盛土)のようなものがいくつか確認できます。このバンカーは、事故があった際に外部への被害拡大を防ぐためのものと考えられます。倉庫とみられる大型の建築物は、三方を山に、もう一方をバンカーに囲まれた、メインの谷戸から左右にのびる支谷最奥にのみ建てられていました。
現在はこれらの建築物もバンカーも残っておらず、隧道弾庫跡の他は、調整池として使用していた窪地が確認できるくらいで、その前身施設のものを含め、大矢部弾庫の遺構はほとんど残っていません。



軍事施設によって保全されてきた 円通寺跡・深谷やぐら群

深谷やぐら群は、メイン谷戸の最奥にあり、円通寺の中心となるお堂は、この下の一段高くなった平場にあったと考えられています。幸い、このメイン谷戸の最奥は、旧日本軍の施設や海上自衛隊の大矢部弾庫があった時代も大きな土地の改変はされていなかったようで、戦後、すぐ近くまで住宅地などの開発が進められていった中、保全状況は良好のようです。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」には、「三浦氏古墳図」として、深谷やぐら群と円通寺とみられる建物の絵図が掲載されています。樹木に覆われているため遠目からその全貌を確認することはできませんが、現況から「三浦氏古墳図」が描かれた当時の姿を想像するのはそれほど難しくありません。
旧日本軍の用地となるおよそ20年前の1918年(大正7年)に発行された「三浦郡誌」では、前述の「新編相模国風土記稿」や1908年(明治41年)発行の「三浦繁昌記」を引用しながら、「深谷観音」という項で、以下のように円通寺と深谷やぐら群について紹介しています(一部旧字体を新字体で転記しています。改行がないのは原文ママ)。
深谷觀音藥王寺址より尚東へ下りて北方に深谷の觀音と云ふ所あり。古此地に深谿山圓通寺と云へる寺ありしが、今は清雲寺に併せられたり。圓通寺に瀧見觀音といへる靈佛ありし故、深谷の觀音と稱するなり。寺の址は今杉林なり。その後背の山腹に數多の洞窟あり、俗に深谷の穴ぐらと呼び三浦黨九十三騎の墓と傳ふ、風土記に依れば、窟の數凡十九、窟中各五輪塔並ぶと言へり。今概ね荒廢して五輪塔の存するもの少し、寺趾の東方山麓に三洞あり。其の中央の大なるものにあざ地藏を置く洞前稍平坦なり、其の右方に小徑あり、就きて登れば、右傍に四洞あり、其の上端のものに初めて一個の五輪塔を存す。尚攀登すれば又二個の洞あり。其の初のものに大小二基の五輪塔あり。其より稍進みて又路あり。左すれば石段の跡尚殘れるを踏みて二塔を得、一は靑石の板碑にて上部缺損したれども、高さ約四尺あり。文永八年五月十四日左衛門少尉の十四文字幽に見ゆ、風土記には少尉の下に平盛信と記せり。此の塔の右側には瓦墻の殘存せる二坪ばかりの平地あり、其の山壁に最も大なる洞窟あり。入口の形状漿棋の駒の如し。内壁に石垣を築きその上を漆喰にて塗り、唐草模樣を表はせり。床は石にて疊む、洞の奥に形崩れし石の佛像あり。風土記に「大なる窟中に五輪塔二基あり。是れ三浦爲通、同義繼の墳なり」とあれど、今なし。三浦繁昌記に「下の洞窟に痣地藏あり。夫より少し上りて巴御前の硯水と言ふあり。更に上方の洞内に梶原七郞景氏の石塔あり。同次郞景衡の墓別洞に梶原六郞景國同七郞景宗、別洞に梶原八郞景則同九郞景連、別洞に梶原平治左衛門尉最高、同三郎景茂、左方の別洞には大庭小二郞景兼土肥先次郞左衛門尉維平墓、別洞に和田二郎義氏金窪四郞左衛門義則、又右方の洞窟に從五位下和田小太郞左衛門尉義盛岡崎太郞義國同二郞實村、左方に岡崎千太郞與市左衛門尉實忠土屋大學介義清同兵衛尉義則相田五郞兵衛義重同六郞兵術義信同七郞秀盛同新左衛門朝盛等の石塔外數多の洞窟がある」と記す。その典據を知らず。
三浦郡誌(神奈川県三浦郡教育会編, 1918年(大正7年))より抜粋
江戸時代に廃寺となった円通寺跡は、「三浦郡誌」の書かれた大正時代前期には荒廃していたことが分かります。また、現在は、1939年(昭和14年)に旧日本軍の用地になった際に清雲寺に移されたとされている三浦為通とその孫・義継の墓の五輪塔二基も、すでに清雲寺に移されていたのか、この時点で深谷やぐら群には現存していなかったようです。
一方、大正前期にはまだ深谷やぐら群に残されていた三浦党九十三騎の墓とされる五輪塔や文永八年在銘の板碑などは、旧日本軍の用地になった際に清雲寺に移されています。
清雲寺は、三浦氏宗家・第3代当主の三浦義継が、父で第2代当主の為継を供養するため建立した寺院で、為継は円通寺ではなく清雲寺に葬られました。
現在、清雲寺の本堂の背後には、三浦氏の初代から第3代までの墓が集められ、為継の墓と伝わる五輪塔と、その両脇に深谷やぐら群から移された三浦為通と義継の墓と伝わる五輪塔が並んで建っています。その周囲には、やはり深谷やぐら群から移された三浦党九十三騎の墓とされる五輪塔も並べられています。



三浦為通・為継・義継以降の三浦一族と円通寺

三浦為通・為継・義継の後、第4代・三浦大介義明の時代に、平家討伐の兵を挙げた源頼朝に従った三浦一族は、鎌倉幕府創設に大きな貢献をし、一族の最盛期を迎えることになります。しかし、その絶頂期は長続きせず、鎌倉時代中期の1247年(宝治元年)、第7代・三浦泰村の時代に起きた宝治合戦で、執権北条氏と幕府内で権力を拡大していた安達氏の勢力によって、一族は滅ぼされてしまいます。
宝治合戦で三浦氏宗家(本家)は滅んでしまいますが、この頃には三浦一族は多くの分家(庶家)が存在していて、その中には近親者の血縁関係などを理由に、宝治合戦では北条氏方に味方した者も少なからずいました。
もとは深谷やぐら群の最上部の三浦為通と義継の墓とされるやぐらの近くにあり、現在は清雲寺に移された「石造板碑 文永八年在銘」は、佐原盛信(平盛信)が父・光盛の十三回忌の供養のため1271年(文永8年)に造立したものですが、この佐原光盛やその兄弟の一族は、まさに北条氏方として戦った三浦一族の生き残りです(佐原氏の祖・佐原義連は、三浦義明の子)。
このように、「石造板碑 文永八年在銘」の存在は、宝治合戦以降も、円通寺が三浦一族の菩提寺として機能していたことを物語っています。
軍記物語「太平記」に現われる三浦義勝(大多和義勝)の大多和氏も、宝治合戦を生き残った一族です(大多和氏の祖・大多和義久も、三浦義明の子)。「新編相模国風土記稿」によれば、三浦義勝も円通寺に葬られた一人です。
三浦義勝は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)、新田義貞率いる反幕府勢に味方し、鎌倉幕府倒幕の立役者の一人となりました。義勝の子孫は「田戸庄」や「赤門」として知られる永嶋(永島)姓を名乗るようになり、江戸時代には公郷村の名主や三浦郡の郡中取締役を務めるなど、近世まで三浦半島の名家として活躍しました。
一般的にやぐらは、三浦為通・為継・義継らの生きた平安時代ではなく、鎌倉時代中期以降から室町時代にかけて多く造営されたとみられているため、三浦一族の墳墓としての深谷やぐら群は、宝治合戦以降、佐原光盛・盛信や三浦義勝の時代に、先祖を供養するため、整備されていったのかもしれません。




三浦半島の主な「やぐら」
やぐらは、三浦半島のさまざまな場所で見ることができます。しかし、その中心は幕府のあった鎌倉で、鎌倉から遠ざかるほど減少傾向にあります。深谷やぐら群は、横須賀では最大規模のやぐら群とみられます。
三浦半島でもっとも規模の大きなやぐら群は、逗子のまんだら堂やぐら群(季節曜日限定公開)です。
また、逗子の池子の森は、円通寺跡・深谷やぐら群(海上自衛隊大矢部弾庫跡)と同じように戦前から旧日本軍の弾薬庫が置かれ(戦後は米軍が弾薬庫や住宅として利用)、結果的に自然が保全されてきた場所です。ここでもやぐらがみられます。
※以下のやぐら群は、一部、公開が制限されている場所もあります。
逗子周辺





金沢街道周辺(浄明寺)


天園ハイキングコース(鎌倉アルプス)周辺





北鎌倉周辺(山ノ内)




源氏山周辺(扇ガ谷)


円通寺跡・深谷やぐら群(海上自衛隊大矢部弾庫跡)周辺の見どころ
大矢部・衣笠方面






岩戸・佐原方面








