満願寺は、三浦大介義明の末子・佐原十郎義連が開いた寺院です。佐原義連は、同じ三浦一族の三浦義澄や和田義盛らとともに鎌倉幕府創設に貢献し、源頼朝の側近として仕えた御家人の一人で、戦国時代に活躍する相模三浦氏や蘆名氏(芦名氏)の祖にあたります。
満願寺に伝わる木造菩薩立像と木造地蔵菩薩立像は、国の重要文化財に指定されています。例年3月に開催される「満願寺・春の文化展」では、これらの仏像の一般公開も行われます。
山号 | 岩戸山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 木造観音菩薩像 |
創建 | 鎌倉時代初期 |
開山 | 大達明岩正因 |
開基 | 佐原義連 |
満願寺の木造菩薩立像と木造地蔵菩薩立像は、その仏像様式から、運慶または運慶に近い者の作とされています。鎌倉幕府成立時期には有力な仏師となっていた運慶に関係する仏像を得ていたことは、佐原氏や三浦一族の力の大きさを客観的に示すものでもあります。
INDEX
満願寺を開いた佐原氏の祖・佐原義連の墓
満願寺を開いた佐原義連は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将です。佐原義連は三浦大介義明の末子で、満願寺からもほど近い場所にあった佐原城(現在の横須賀市佐原)を本拠地としたため、佐原氏(三浦氏佐原流)を名乗りました。
佐原義連は、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」にも、平家討伐や奥州征伐、その後の行事等でたびたびその名前が登場し、同じ三浦一族の三浦義澄や和田義盛らとともに、源頼朝の側近の一人であったことが分かります。
平家討伐の際、源義経の軍勢に加わっていた一ノ谷の戦いでは、鵯越の逆落としの奇襲で先陣をきって崖の上から駆け下りたという武勇が有名です。
奥州征伐の後には、源頼朝から会津を領地として与えられ、その後、戦国時代まで会津を本拠地として活躍した蘆名氏(芦名氏)の祖となりました。佐原義連の孫・光盛が蘆名氏を名乗り会津を領したため、これ以降、会津の佐原氏は蘆名氏として、奥州を代表する名門となり、栄えていくことになります。光盛が蘆名氏を名乗ったのは、会津に入る以前に、三浦半島の芦名(現在の横須賀市芦名)を領していたか、もともと佐原氏とは別の系統で三浦一族に存在していた蘆名氏と関わりがあったことなどが考えられます。このような縁もあり、現在、横須賀市と会津若松市は友好都市となっています。
佐原義連の生誕や死没については詳しく分かっていません。「吾妻鏡」では、1207(建永元年)6月24日の条に、和泉・紀伊両国の守護であった佐原義連の死後について語られているため、これ以前に亡くなっていたと考えられます。また、「蘆名系図」によると、1203年(建仁3年)5月17日に亡くなったとされています。
満願寺の裏山には、佐原義連の墓と伝わる五輪塔が残されています。
佐原義連の子孫は、その孫の世代に、相模三浦氏として三浦一族の再興を果たしていくことになります。
佐原義連の次男・盛連は、三浦氏宗家(本家)の三浦義村の娘・矢部禅尼と結婚しました。矢部禅尼が盛連に嫁ぐ前は鎌倉幕府第3代執権・北条泰時と結婚していた縁もあり、三浦氏宗家が北条氏に滅ぼされることになる宝治合戦では、佐原一族の多くが北条氏側に味方しました。そのため、佐原義連の孫、佐原盛連の子である盛時が、宝治合戦で滅んだ三浦氏を名乗り、再興していくことになります。
運慶または運慶工房の作とされる仏像
満願寺の佐原義連の墓の隣りには、旧観音堂が建っています。
満願寺に伝わる2体の国指定重要文化財、木造菩薩立像と木造地蔵菩薩立像などは、かつて、この観音堂に安置されていました。現在は、本堂の横にある収蔵庫に安置されています。(拝観は要予約)
この木造菩薩立像と木造地蔵菩薩立像は、ともに高さが2m以上ある大型の仏像で、芦名にある浄楽寺の運慶作の仏像と似ていることから、運慶または運慶工房の作である可能性を指摘されています。
浄楽寺の運慶仏は、鎌倉幕府の侍所初代別当となった和田義盛とその妻が願主となって運慶に製作を依頼したことが分かっています。満願寺の仏像が運慶または運慶に近い者の製作であったとするならば、佐原義連も和田義盛と肩を並べるような実力者であったと言えるでしょう。
満願寺の境内からは、ともに源頼朝が鎌倉に創建した三大寺社の一つである永福寺跡や鶴岡八幡宮・二十五坊跡から出土したものと同じ八事裏山窯産(現在の愛知県)の瓦が出土していることから、将軍家に近い者または源頼朝自身が満願寺の創建に関わった可能性も考えられます。
あるいは、通説として、満願寺は三浦一族の一氏族である佐原義連によって開かれた寺院とされていますが、鎌倉幕府の成立時期には有力な仏師となっていた運慶との関わりなどから、三浦氏宗家の強い影響下のもと創建されたことも考えられます。(満願寺のご住職とお話させていただいた際にも、三浦氏宗家との関わりの強さを指摘されていました)
満願寺のある岩戸は、現在の行政区分では久里浜エリアとなっていますが、三浦一族(三浦氏宗家)の本拠地である大矢部や衣笠城にも近く、もともと衣笠の文化圏にあったと言えます。現在は住宅地の開発などでその道筋も分かりにくくなってしまっていますが、三浦氏ゆかりの満昌寺や清雲寺方面との往来も少なくなかったことでしょう。
なお、かつて大矢部にあった三浦氏の菩提寺・円通寺(廃寺)の裏山には、佐原氏によって整備された深谷やぐら群があります。この深谷やぐら群は、宝治合戦で三浦氏宗家が滅んだ後に整備されたものと考えられ、三浦氏の初代・三浦為道と3代・義継の墓がありました。現在、三浦為道・義継の墓は、2代・為継が眠る清雲寺に移されています。
満願寺のその他の見どころ
中島三郎助筆による芭蕉の句碑
満願寺の本堂脇には、江戸幕府・浦賀奉行所与力であった中島三郎助の筆による、芭蕉の句碑が建っています。中島三郎助は、ペリー来航の際に、旗艦「サスケハナ」に乗船してアメリカ側との交渉役を務めた人物です。中島三郎助自身も俳人として知られています。