住吉城は、逗子・小坪と鎌倉・材木座の境にあたる、飯島岬(飯島崎)から続く丘陵地にあったと考えられている中世~近世の山城です。逗子・小坪の字飯島の鎮守・住吉神社の境内と、その背後の山にあたります。前方は相模湾に面していて、山と海に囲まれた要害の地にあります。
築城された時期や人物などの詳細は分かっていませんが、戦国時代の武将・三浦道寸(義同)ら相模三浦一族が、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏と戦った際に、この城が使われたとみられています。
現役当時の呼び名は不確かなものもあるものの、三浦半島の城の名称は、たとえば「衣笠城」や「三崎城」というように、地名から名づけられているものが多いです。しかし、住吉城は、地名ではなく、現在もその場所に鎮座する住吉神社(住吉明神)から名づけられています。
住吉城と同様に住吉神社の創建についても詳細は不明なため、城ができる以前からその場所に住吉神社があったのか、城ができてから住吉神社を勧請したのかは分かりませんが、江戸時代後期までは「三浦道寸城跡」などと、武将名+「城」で呼ばれることが多かったようです。
住吉明神は「海の神様」「航海の神様」として祀られることが多いことから、三浦半島各地で見られる、水軍の基地もあわせ持った出城だったとも考えられます。現在もこの場所は、逗子マリーナや小坪漁港として、ヨットや漁船の基地として使われています。
INDEX
三浦道寸とその弟・道香の城の跡
三浦道寸率いる相模三浦氏は、相模国の中央に位置する岡崎城(現在の伊勢原市)を本拠地としていました。しかし、伊豆や小田原などの西から徐々に勢力を拡大してきていた北条早雲率いる後北条氏と武力衝突が起きるようになります。相模三浦氏は徐々に相模国の南東に追い込まれ、最終的に、三浦半島南端の新井城まで後退することになります。
相模三浦氏が岡崎城から新井城に後退していく途中で、後北条氏とは何度か戦闘をくり広げることになりますが、1512年(永正9年)、その一つがこの住吉城でありました。
この住吉城での戦いでは、道寸の弟・三浦道香(義教)が住吉城を守り、その間に、道寸とその子・荒次郎(義意)らは新井城に逃れていくことができました。
住吉城の戦いは後北条氏方の勝利に終わり、その際、三浦道香とその家臣の何人かも落ちのびましたが、最期は逗子の延命寺で自害しました。
延命寺の境内では今も三浦道香主従七武士の墓が供養されていますが、これは後に家臣であった菊池幸右衛門が建立したものです。
新井城に逃れた三浦道寸・荒次郎らも、新井城に3年間籠城して抵抗した後、力尽き、1516年(永正13年)に一族は滅びてしまいます。
三浦道寸の時代の三浦一族は、主に平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した三浦一族と区別するため、「相模三浦氏」などと呼ばれています。
同様に、北条早雲の時代の北条氏は、執権職などで鎌倉幕府の実権を握った北条氏と区別するため、「後北条氏」や「小田原北条氏」などと呼ばれています。
三浦一族が陣を敷いた小坪坂
住吉城周辺では、平安時代末期にも、三浦一族の戦いの舞台になっています。源頼朝による平家討伐の挙兵に呼応した三浦一族と、平家方についた畠山重忠の軍勢との戦いです。
鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」巻二十一の「小坪合戦」によれば、三浦一族の軍勢は前線を小坪坂に、後方を鐙摺城に、畠山重忠の軍勢は由比ヶ浜の稲瀬川河口付近に陣を敷いたと言います。
三浦一族の軍勢が陣を敷いた小坪坂がどこなのか特定することは難しいですが、地名や戦局から考えて、ちょうど住吉城があったあたりなのは間違いありません。
この当時、ここに城があったという記録は見られませんが、敵を迎え撃つのに適した場所だったのでしょう。
はじめて住吉城が登場する史実として、江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」や、それをもとにした明治~昭和期の文献では、戦国時代前期の1510年(永正7年)に、越後守護代・長尾為景の蜂起に呼応した北条早雲が、扇谷上杉氏による反攻に備えて取り立てて、立て籠もった城として扱われることがあります。しかし、これは、当時の勢力図から考えて、相模国の端にある逗子・小坪の住吉城ではなく、扇谷上杉氏の本拠地・江戸城と北条早雲の本拠地・小田原城の間にあたる、平塚にあった住吉要害のことだと考えられています。
なお、このときは、北条早雲が守る住吉要害は、扇谷上杉家出身の三浦道寸に攻略されています。
素掘りのトンネルや横穴が残る住吉城跡
現在、逗子マリーナや小坪飯島公園などの相模湾側から住吉城跡(住吉城址)を望むと、「内陸の」断崖絶壁の地にあるように見えます。しかし、逗子マリーナや小坪飯島公園などがある海沿いの平地は、主に1960年代後半(昭和40年代前半)に埋め立てられた場所で、古くはこの断崖絶壁のすぐ下まで海がせまっていました。鎌倉・材木座方面と逗子・小坪方面を海沿いに結ぶ道は、今はこの埋立地を通っていますが、「新編相模国風土記稿」の絵図や埋め立て前の写真を見ると、かつてはこの断崖絶壁の中腹(より下側)を通る道があったことが分かります。
住吉神社の背後にあたる山や山中の谷戸も、宅地開発によって地形は大きく変わっています。これらの場所は私有地のためその大部分は入ることができず、現在、住吉城跡として見ることができるのは、住吉神社とその下にある正覚寺の境内だけです。
しかし、正覚寺の本堂がある平場、正覚寺と住吉神社の間にある平場、住吉神社の社殿がある平場、というように、段々状に平場が切り開かれている様子は、ここが山城の一部であったという雰囲気を十分に感じさせてくれます。
また、この住吉城跡周辺では、開削時期が不明な素掘りのトンネルややぐら(中世の横穴式の墳墓、または供養の場)のような横穴がいくつも確認されていますが、これらの多くも、現在は行き止まりだったり立入禁止の場所にあります。
いずれも、城として使われていた時代からあったものかどうか分かりませんが、近代に入ってから生活路ととして開削されたものや、戦時中に砲台や防空壕として使われていたものもあるようです。あるいは、古くからの横穴を砲台や防空壕として再利用したものもあったかもしれません。
江戸時代前期に成立した地誌「新編鎌倉志」には、「切抜の洞二十余間ありて、寺へ抜通なり」とあって、岩屋を指して「くらがりやぐら」と呼ばれていることを紹介しています。「切抜」とは、トンネルや切通しのような、人工的に開削された道のことです。
江戸時代後期に成立した地誌「鎌倉攬勝考」では、住吉神社の境内から山中を切り抜いた洞口を「大手口」と呼び、おそらく「新編鎌倉志」を踏襲するかたちで、土地の人は「くらがりやぐら」と呼んでいたことが記されています。
これらのことより、住吉城跡周辺に残るトンネルのいくつかは、少なくとも江戸時代には存在していたことが確認でき、戦国時代に使われた城の遺構である可能性も高いと考えられます。
住吉城跡(住吉城址)周辺の見どころ
現在、住吉城跡(住吉城址)の大部分は私有地のため、住吉神社境内周辺以外は見学することができません。開発によって遺構の多くも失われているものと考えられます。