大町釈迦堂口遺跡は、名越ヶ谷の支谷最奥に位置する、鎌倉時代後期から室町時代にかけての遺跡です。谷戸の斜面や山稜部では、地蔵やぐら・唐糸やぐら、日月やぐらなど、合計64基の「やぐら」(主に中世に造られた横穴式の墳墓または供養の場)が確認されています。
谷戸最奥の平場では掘立柱建物や礎石建物の遺構や火葬跡が発見されています。また、この平場周辺では13世紀後半のものとみられる青磁鉢3点(「伝大町衣張山出土 青磁鉢」いずれも国指定重要文化財で、東京国立博物館所蔵)など多数の陶磁器類も出土しています。
このような状況から、大町釈迦堂口遺跡には寺院などの宗教施設があったと推定されています。具体的にこの場所とみられる内容を記した史料は見つかっておらず、まだ謎の多い遺跡ですが、中世の鎌倉の祭祀や土地利用を知るうえで重要な遺跡であることから、2010年に国指定史跡に指定されました。
「釈迦堂」という名前は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が父である第2代執権・北条義時の供養のために建てた釈迦堂がこのあたりにあったという伝承に基づく地名とされています。しかし、北条義時死没の年代(鎌倉時代前期の1224年(元仁元年))と大町釈迦堂口遺跡の遺構や出土品の年代(鎌倉時代後期から室町時代にかけて)とは時代が合わないため、この場所に義時の釈迦堂があったというわけではありません。
「大町釈迦堂口遺跡」は以下の日程で暫定公開されています。
2026年2月26日(木)~3月11日(水)
各日10:00~16:00
釈迦堂切通(トンネル)は通行できないため、鎌倉駅方面からのアクセスは大町側の名越バス停方面からのみ可能です。浄明寺(金沢街道)側から直接行くことはできません。
毎日、以下の時間帯に無料のガイドツアーも行われます。(所要時間約40分)
①10:15~ ②11:00~ ③14:00~ ④15:00~
INDEX
かつて北条時政邸跡とされていた「大町釈迦堂口遺跡」

大町釈迦堂口遺跡では、2008年に平場部分で発掘調査が実施されました。この調査では、13世紀後半頃に谷戸の大規模な造成が行われたことや、鎌倉時代後期~室町時代にあたる14世紀頃には、掘立柱建物や礎石建物が建てられていたことなどが分かっています。発掘調査の結果は、鎌倉市教育委員会によって報告書にまとめられました。この記事もその報告書の内容を参考にしています。
この遺跡自体は昭和30年代にも調査が行われていて(国指定重要文化財の青磁鉢3点はその少し前に出土したものとされています)、周辺のやぐらの存在を含め、2008年の発掘調査以前から中世の遺跡の存在は知られていました。昭和30年代当時は、このあたりに鎌倉幕府初代執権・北条時政の「名越山荘跡」があったという伝承から、「北条時政邸跡」と呼ばれてきましたが、2008年の発掘調査によって鎌倉時代後期から室町時代の遺跡であることが確認されたことから、2009年に「大町釈迦堂口遺跡」という名称に変更されました(北条時政は鎌倉時代前期の1215年(建保3年)に死没)。
昭和30年代の調査以降は、企業の保養所として市民にも開放された施設になるなどした時期もありましたが、大きな開発は免れてきました。
しかし、2007年にこの周辺の土地が不動産開発事業者へと売却され、宅地造成の計画が浮上したことを受けて、地元の市民を中心に文化財の保護を求める働きが活発になりました。2008年の発掘調査は、このような経緯から、埋蔵文化財の状況を把握することと、将来的な遺跡の保護を念頭において行われました。
2026年現在は一般公開に向けた整備が進められていて、2026年2月~3月には、危険木の伐採や転落防止柵設置等の環境整備が進んだことから、期間限定で暫定公開が行われました。(この記事の写真は、暫定公開時に撮影したものです)
特徴的な形式の「地蔵やぐら」と源頼朝の時代の伝承が残る「唐糸やぐら」
地蔵やぐらと唐糸やぐらは平場奥の山稜部に位置しています。この二つのやぐらは、左右に並んで造られています。
地蔵やぐら
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地蔵やぐらは、やぐらの奥壁に直接、地蔵菩薩座像が彫られているのが特徴で、やぐらの名前の由来にもなっています。その前方には、大型の五輪塔2基が安置されています。地蔵やぐら内には納骨穴がみられないことから、周辺のやぐらに対する仏殿のような役割を持っていた可能性も考えられます。
このような、周辺のやぐらとは性質が異なるやぐらが存在することはそれほどめずらしいことではなく、朱垂木やぐらもそのような見方がされています。
唐糸やぐら

唐糸やぐらは、平安時代後期に活躍した武将・木曽義仲の家人・手塚太郎光盛の娘・唐糸が源頼朝暗殺を企てた罪によって鎌倉で捕らえられ、唐糸の娘・万寿姫が救いに行くという御伽草子「唐糸草子」の伝説が残るやぐらです。「唐糸草子」で唐糸が幽閉されたのがこのやぐらとされていますが、一般的にこのような形式のやぐらが造営されたのは鎌倉時代後期以降とみられているため、あくまで伝説ではありますが、このあたりに手塚太郎光盛や唐糸、もしくはそのモデルとなった人物に関わるなにかがあったのかもしれません。
太陽や三日月の意匠が見られる「日月やぐら」

日月やぐら群は、平場奥の山稜部から、さらに釈迦堂切通の真上を渡った先にある、大町釈迦堂口遺跡の北西に位置するやぐらです。合計7基のやぐらがあり、平場側から数えて3番目にあたる特徴的なやぐらから、日月やぐら群と呼ばれています。
このやぐら内部には、太陽と三日月の形のように見える龕(仏像や仏具を安置するためのくぼみ)が設けられていることから、「日月やぐら」と名付けられました。この名称は、古くから使われていたわけではなく、昭和30年代の調査時に命名されたものです。

手を加えられている可能性が高いやぐら内の遺物
この他にもやぐらは、谷戸最奥の平場周辺の斜面などでも見られます。
大町釈迦堂口遺跡内には64基のやぐらが確認されていますが、すべてが同一の施設のものとして造営されたのかどうかは分かりません。大町釈迦堂口遺跡の周辺にも多数のやぐらがあり、「大町釈迦堂口遺跡」の範囲も、現代になって便宜上設けられたものであるためです。
また、現在やぐら内に残る五輪塔などの石塔の多くも、元から同じ場所にあった可能性は低く、後年、場所を移動されたり、積み方が変えられたり、手を加えられていると考えられています。
これは大町釈迦堂口遺跡のやぐらに限った話ではなく、現存するやぐら全般に言えることです。そのような意味では、地蔵やぐらの地蔵菩薩座像や日月やぐらの太陽や三日月形をした龕など、やぐらに直接施されたものは造営の背景を探るうえで貴重です(厳密には、これらも、やぐら造営時からある確証があるものばかりではありませんが)。


国際興業の保養所時代の昭和の遺構
昭和30年代以降、この場所には国際興業の保養所があった時代があり、大町釈迦堂口遺跡にはその昭和時代の遺構も残されています。地蔵やぐら・唐糸やぐらと日月やぐら群の間では、散策路として利用されていた橋や建物の遺構も見られます。橋が架かっている下の切通し状の崖も人工的に開削されたもので、やぐらなどの宗教施設とは直接は関係がない可能性が高いものです。
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鎌倉や逗子などの三浦半島で見られるその他の「やぐら」
これらの中でも最大級とされているやぐら群は、大町釈迦堂口遺跡に隣接したエリアにあるまんだら堂やぐら群です。大町釈迦堂口遺跡からまんだら堂やぐら群にかけての、かつて「名越」と呼ばれた地域には日蓮宗の寺院が多く、これらの遺跡がその関連施設であった可能性も考えられます。
※一部、公開が制限されている場所もあります。
天園ハイキングコース(鎌倉アルプス)周辺





金沢街道周辺(浄明寺)


北鎌倉周辺(山ノ内)




源氏山周辺(扇ガ谷)


逗子・横須賀






大町釈迦堂口遺跡周辺の見どころ
大町釈迦堂口遺跡の北西部には釈迦堂切通(トンネル)が通っています。(2026年2月現在、立入禁止)
また、大町釈迦堂口遺跡の少し南側には、衣張山の大町側の登山道入口があります。


大町側(南側)



浄明寺側(北側)
※2026年2月現在、釈迦堂切通の通行はできないため、大町釈迦堂口遺跡から直接浄明寺側に行くことはできません。小町大路方面へ迂回するか、衣張山を経由する必要があります。




