長谷寺は「長谷観音」の名で親しまれている、奈良時代に創建されたと伝わる、鎌倉有数の古刹です。
本尊の十一面観世音菩薩像は木彫仏としては日本最大級の仏像です。十一面観世音菩薩像が安置されている観音堂の隣りには、「観音菩薩」をテーマとした観音ミュージアム(拝観料とは別料金が必要)も併設されています。
また、長谷寺は、40種類2,500株のあじさいをはじめ、梅や桜など、四季を通じて花が絶えることのない、鎌倉を代表する花の寺でもあります。
初夏にはあじさいが咲きほこる眺望散策路(あじさい路)や境内の中腹に設置されている見晴台からは、鎌倉のまちや由比ヶ浜、三浦半島方面が一望できます。
山号 | 海光山 |
宗派 | 浄土宗 |
寺格 | ー |
本尊 | 十一面観世音菩薩像 |
創建 | 736年(天平8年) |
開山 | 徳道 |
開基 | 藤原房前 |
長谷寺の阿弥陀堂には、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)・源頼朝の厄災消除を祈願して造立されたと伝わる阿弥陀如来坐像が安置されています。また、長谷寺には畠山重忠の守り本尊と伝わる仏像も安置されていて、鎌倉時代の武士にゆかりがある仏像も拝観できます。
INDEX
三浦半島に流れ着いた長谷寺の十一面観世音菩薩像の伝承
長谷寺の本尊・十一面観世音菩薩像は、右手に錫杖、左手に水瓶を持ち、四角形の岩座に立つ、「長谷寺式十一面観音菩薩」と呼ばれる観音様です。ここで言う「長谷寺」とは、鎌倉の長谷寺と深いつながりのある、旧大和国の長谷寺のことです。
鎌倉の長谷寺の寺伝などの伝承によれば、奈良時代の721年(養老5年)、大和国の長谷寺の開基・徳道は、大和国の山中で見つけた大木から二体の十一面観音を造り、そのうちの一体を大和国(現在の奈良県桜井市)の長谷寺に安置し、もう一体を海に流したと言います。
それから15年後の736年(天平8年)、徳道が海に流した十一面観音は、三浦半島の長井(現在の横須賀市の南西部)に流れ着きます。たびたび、地方官監察などの東海道(当時の行政区分の「東海道」とは、近畿から関東にかけての太平洋側の地方)の巡察任務に就いていた藤原房前は徳道を呼びよせて、この十一面観音を鎌倉に安置したのが、鎌倉の長谷寺のはじまりと伝えられています。
十一面観世音菩薩像が流れ着いた場所は、長井の隣りにあたる、初声(現在の三浦市初声町)とする説もあります。
大和国の長谷寺の所在地は奈良県桜井市初瀬(現在の読みは「はせ」ですが、古くは「はつせ」と呼ばれていました)で、大和国の長谷寺の寺名はこの地名がもとになっています。
三浦の「初声」の地名の由来は、平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した三浦一族の武将・和田義盛の本拠地があった和田(現在の三浦市初声町和田)で、源頼朝らとともに平家討伐を成し遂げた後、和田の村民を交えた酒席で戦勝の舞「初声」が披露されたことによるというのが通説です。
しかし、「初瀬」の十一面観音と双子の十一面観音はそれより前の奈良時代に流れ着いているため、「初声」の地名の由来や和田義盛による戦勝の舞は、この伝承がもとになっているということも考えられます。
長谷寺境内の見どころ
観音堂(本堂)
境内のある山の中腹にあり、長谷寺の本尊・十一面観音菩薩像が安置されています。
長谷寺は、坂東三十三観音霊場第四番、鎌倉三十三観音霊場第四番の札所になっています。
観音ミュージアム
観音ミュージアムは、前身である長谷寺宝物館の老朽化にともない、2015年に開設されました。観音堂の向かって左側にあります。
長谷寺に伝わる数多くの寺宝の他、長谷寺の本尊「観音菩薩」をテーマとした展示がされています。
阿弥陀堂
観音堂の向かって右手にあり、源頼朝が42歳の厄除け祈願のために造立したものと伝わる阿弥陀如来坐像が安置されています。この阿弥陀如来坐像は、もとは長谷寺の近隣にあった誓願寺(廃寺)の本尊だった仏像で、現在は「鎌倉六阿弥陀」の一つに数えられています。
鐘楼
鎌倉時代の文永元年(1264年)の銘を持つ長谷寺の梵鐘は、鎌倉では常楽寺、建長寺についで3番目に古い梵鐘です。国の重要文化財に指定されていて、観音ミュージアムに安置されています。
また、この梵鐘で見られる「新長谷寺」という文字が、長谷寺に残る文化財のなかで「長谷寺」という寺号が確認できる最古の資料とされています。
現在、境内の鐘楼に架かる梵鐘は、1984年(昭和59年)に鋳造されたものです。
かきがら稲荷
長谷寺の本尊・十一面観世音菩薩像が三浦半島に流れ着くまで、かきがら(牡蠣の貝殻)が付着し、海に漂う尊像を守ったと伝えられています。
かきがら稲荷には、そのかきがらが祀られています。
かきがら稲荷の伝承は絵馬でも見られ、牡蠣の貝殻を使用しためずらしい絵馬になっています。
経蔵(輪蔵)
眺望散策路(あじさい路)のふもとに建つ経蔵には、「輪蔵」と呼ばれる回転式書架が安置されています。
輪蔵には一切経(大蔵経)が収められていて、書架を一回転させることで一切経をすべて読誦した功徳が得られるとされています。
※輪蔵は観音御縁日(毎月18日)と正月三が日、4月8日(灌仏会)、8月10日(四萬六阡日)のみ回すことができます。
地蔵堂
地蔵堂は、山門などがある下境内と観音堂などがある上境内の間にあり、子孫繁栄のご利益があるとされる福徳地蔵が安置されています。
地蔵堂のまわりには、千体地蔵と呼ばれている、水子やご先祖の供養で建てられた無数のお地蔵様が並んでいます。
大黒堂
長谷寺に伝わる大黒天像は、室町時代の応永19年(1412年)の銘を持つ東日本最古のもので、観音ミュージアムに収蔵されています(通常非公開)。
現在、大黒堂には、出世・開運授け大黒天やさわり大黒天が祀られています。
出世・開運授け大黒天は、鎌倉・江の島七福神めぐりの一つとしても親しまれています。
弁天堂&弁天窟
長谷寺の八臂弁財天像(出世弁財天)は、弘法大師が自らの手で彫られたものと伝えられていて、観音ミュージアムに収蔵されています(通常非公開)。
現在、弁天堂には、福徳弁才天が祀られています。
また、弘法大師が立ち寄られたという岩窟「弁天窟」の壁面には、弁財天や十六童子などが彫られています。
良縁地蔵&和み地蔵
境内の数か所で見られる良縁地蔵や、大黒堂と弁天堂の近くに立つ和み地蔵は、長谷寺の人気フォトスポットです。親しみやすいお顔をしていて、格式高いお地蔵様とはまた違った魅力があります。
書院(写経会場)
長谷寺の書院では、毎日、写経・写仏の体験会が開かれています。
眺望散策路(あじさい路)
長谷寺でもっとも標高が高い場所にある眺望散策路は、鎌倉の街並みや由比ヶ浜を一望できる絶景スポットです。初夏には散策路沿いであじさいが咲き乱れるため、「あじさい路」とも呼ばれています。
40種類2,500株のあじさいが咲きほこる紫陽花の名所
例年6月上旬~中旬に見ごろを迎える長谷寺のあじさいは、今では観音様と並んでお寺のシンボルのような存在です。
境内の散策路沿いに咲くほか、いろいろな場所に鉢植えのあじさいも飾られていて、最盛期には境内が色とりどりのあじさいの花であふれます。
とくに、境内のいちばん上部にある「あじさい路(眺望散策路)」は見ごたえがあります。あじさいが見ごろの時期は、あまりの人気のため、なかなか前へ進めなかったり、入場制限がかけられることもあります。散策路の両側からあじさいの花が迫ってくるような迫力は感じられませんが、シーズン直前の平日は比較的空いているためオススメです。
また、長谷寺のあじさいの特徴の一つに、見られる品種の豊富さをあげることができます。
「長谷の潮騒」や「長谷四片」「長谷の祈り」など、長谷寺で命名された新種のあじさいも多く見ることができます。
鎌倉を代表する花の寺
長谷寺の花と言えばあじさいが有名ですが、それほど混雑しないあじさいの時期以外に行っても、季節の花をたのしむことができます。
とくに梅の季節は、いろいろな種類の花が見られ、1月ごろの黄色いロウバイや黄梅からはじまって、2月から3月にかけては白梅や紅梅、ピンク色の枝垂れ梅などが、時期をずらして開花していきます。
もちろん、梅が終わった後は桜もたのしめます。境内の山全体がソメイヨシノの薄紅色やヤマザクラの白色に染まる姿は、圧巻です。
ちょうど桜が見ごろになるころに、長谷寺は春の花のピークを迎えます。
長谷寺ではツツジも、ミツバツツジや吉野ツツジなど、いろいろな品種が植えられていて、早咲きのツツジは桜とのコラボレーションをたのしめることもあります。
長谷寺で初春~春に見られる花
しだれ桜
ソメイヨシノ
利休梅(リキュウバイ)
木瓜(ボケ)
シャクナゲ
ツツジ
サツキ
長谷寺で初夏に見られる花
どうしてもあじさいの陰に隠れがちですが、初夏の長谷寺では、あじさい以外にもたくさんの種類の花が見ごろを迎えています。
花菖蒲(ハナショウブ)
睡蓮(スイレン)
幻想的な紅葉や梅のライトアップ
近年、長谷寺では、紅葉や梅の見ごろの時期に、閉門時間をくり下げて、ライトアップが行われます。
人気のイベントのため、毎年多くの人が訪れます。それでも、境内のいたるところにモミジや梅があり、そのほとんどがライトアップされるため、見どころも混雑も分散されます。
とはいえ、一番人気の放生池のライトアップは幻想的で、写真撮影の行列ができるほどです。
長谷寺の紅葉ライトアップ
長谷寺の梅のライトアップ
鎌倉時代以前からの要所
長谷寺がある場所は鎌倉時代の鎌倉の中心地からは少し離れています。鎌倉時代に開削された大仏切通や極楽寺坂切通に近く、中世の基準では鎌倉のふちにあたる場所と言えます。
しかし、長谷周辺には、鎌倉最古の神社と言われる甘縄神明神社や平安時代創建と伝わる御霊神社(権五郎神社)などの古社も多く、古東海道(律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)沿いでもあるこの地は、源頼朝の鎌倉入り以前は鎌倉の中心地と言えるような場所であったことがうかがい知れます。