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和田義盛ゆかりの地 | 三浦七阿弥陀や巴御前との伝承が残る三浦半島

和田義盛の本拠地・和田の里、鎌倉幕府初代侍所別当、和田義盛と薬師信仰・阿弥陀信仰

和田義盛ゆかりの地-和田エリア
和田義盛ゆかりの地-和田エリア
和田義盛ゆかりの地-広域
和田義盛ゆかりの地-広域エリア
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和田義盛と巴御前

巴御前木曽義仲(源義仲)の愛妾であり女武者でしたが、義仲源頼朝の軍勢に敗れると、巴御前は捕虜となり、鎌倉へ送られました。その後の消息については諸説ありますが、その中の一つに、和田義盛にかくまわれた、あるいは、和田義盛の妻になったと言い伝えがあります。
鎌倉幕府で御家人を束ねる侍所別当(長官)であった義盛が、巴御前の身を預かる立場にあったことは十分に考えられます。

六国見山

六国見山は、北鎌倉の円覚寺の裏山にあたります。円覚寺などがある北鎌倉駅周辺には現在でも山ノ内という地名が残っていますが、中世、このあたりは山内荘という荘園の一部でした。
和田義盛の一族が滅んだ後、山ノ内北条氏の所領になっています。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田義盛(和田殿)巴御前は、この六国見山のそばで暮らしているように描かれていました。
源頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、山内荘土肥実平の所領となりましたが、土肥氏三浦一族とも血縁関係にあったため、ここに和田義盛の所領や別邸があったとしても不思議なことではありません。
現在、六国見山には六国見山森林公園が整備されています。山の名前の由来となった、相模・武蔵・伊豆・上総・下総・安房の六国を望むことができたという眺望は今も健在で、気象条件が良ければ、展望台からは富士山をはじめとした遠くの山々を望むことができます。

●住所
鎌倉市高野36-14(六国見山森林公園の情報、以下同様)

●入園料
無料

●駐車場
なし

●公共交通機関
公園北口入口(大船高校方面)
JR各線・湘南モノレール「大船駅」より、江ノ電バス『高野台』行き終点下車、徒歩約5分
公園北口入口から展望台まで徒歩約20分
公園南口入口(北鎌倉駅方面)
JR横須賀線・湘南新宿ライン「北鎌倉駅」より徒歩約15分(下りホーム大船寄りの臨時改札口利用の場合。この臨時改札口は、北鎌倉隧道の安全対策工事が終了すると撤去されます。逗子寄りの常設改札口利用の場合は、プラス10分程度かかります)
公園南口入口から展望台まで徒歩約15分
今泉台住宅側の六国見山登山口(鎌倉市山ノ内248-10付近)
・「散在ガ池森林公園」南口から徒歩約20分
・「明月院」から徒歩約20分
・「天園ハイキングコース」明月院方面入口から徒歩約10分
登山口から展望台まで徒歩約20分

六国見山森林公園・展望台(撮影日:2021.02.05)
六国見山森林公園

周辺の見どころ
大船の切通し
長窪の切通し(高野の切通)

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正行院

正行院は、和田義盛が妻・巴御前の菩提寺として建立したと伝わる寺院です。正行院には、巴御前の遺髪が埋められたと伝えられています。
巴御前の後半生については、日本各地に伝承が残っていますが、和田義盛との伝承が残る三浦半島にはとりわけ多いと言えます。
横須賀の岩戸にある三浦一族ゆかりの満願寺近くには巴御前のものと伝わる墓(民有地のため通常非公開)があります。巴御前の墓と伝わる場所は、この周辺の、佐原森崎にもあります。いずれも、三浦一族(三浦氏宗家)の本拠地と言える大矢部に隣接する場所で、大矢部にも、巴御前が晩年暮らしたという言い伝えが残っています。衣笠城を築いたとされる三浦氏の初代・三浦為道が創建した、大矢部にあった円通寺(廃寺)の近くには、巴御前ゆかりの井戸(円通寺跡は、戦前、旧日本軍に接収され、戦後も海上自衛隊大矢部弾薬庫として使用されていたため、現存するか不明)が伝わっています。

●住所
横須賀市秋谷2-16-2

●参拝料
無料(志納)

●駐車場
あり

●公共交通機関
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅(東口)」または京急逗子線「逗子・葉山駅(南口)」より、京急バス「長井」行き、「横須賀市民病院」行き、「大楠芦名口」行き、「佐島マリーナ入口」行きなどの長井・佐島方面行きにて『前田橋』下車、徒歩約6分

正行院・本堂(撮影日:2022.05.10)
正行院

周辺の見どころ
大楠山

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朝夷奈切通(朝比奈切通し)

朝夷奈切通(朝比奈切通し)鎌倉七口の一つで、鎌倉の中心部と、中世以降東京湾に面した鎌倉の外港(貿易港)として栄えた六浦(現在の横浜市金沢区)とを結ぶ古道です。
朝夷奈切通には、和田義盛の三男・朝比奈(朝夷名)義秀(幼名:三郎)が一夜にして切り開いたという伝説が残っています。切通の名前もこの伝説に由来します。また、切通の鎌倉側には、三郎の滝と呼ばれる小さな滝もあります。
この朝比奈義秀の母は巴御前だという伝承があります。しかし、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」などから、義秀は、木曽義仲が滅亡して巴御前が捕虜になる10年ほど前に生まれたことになっているため、信憑性は低い言い伝えです。創作だとしても、怪力で知られた朝比奈義秀を、武芸に秀でた和田義盛と女武者だった巴御前の子とする説が生まれたのは、分からない話ではありません。
なお、巴御前が仕えていた木曽義仲は通称・朝日将軍とも呼ばれていて、偶然にも、朝比奈義秀とは「あさひ」つながりという縁もあります。(朝比奈(朝夷名)義秀の名前は、安房国朝夷郡(現在の千葉県南房総市)に由来するとされています)また、当時の史料自体の信憑性が高いとは言えず、史料に記載されている年齢や生年が必ずしも正しいとは限りません。

●住所
横浜市金沢区朝比奈町字峠坂1番地、鎌倉市十二所

●駐車場
なし

●公共交通機関
鎌倉駅からバス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「鎌倉霊園正面前太刀洗」行き、「金沢八景駅」行きで『十二所神社』下車徒歩約20分
金沢八景駅からバス利用の場合
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より京急バス「鎌倉駅」行き、または神奈川中央交通バス「大船駅」行き、「上郷ネオポリス」行きで、『朝比奈』下車徒歩約10分
徒歩の場合
京急逗子線「六浦駅」より徒歩約40分
または、JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より徒歩約1時間5分

朝夷奈切通・大切通を鎌倉側から見る(撮影日:2018.03.18)
朝夷奈切通(朝比奈切通し)

周辺の見どころ
朝比奈熊野神社
梶原太刀洗
上総介塔(上総広常の墓)

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和田合戦

侍所別当として源頼朝に重用された和田義盛は、朝夷奈切通の先にあり鎌倉の外港(貿易港)として栄えた六浦周辺にも所領があったとされています。また、源頼朝の死後も、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家を支える十三人の合議制のメンバーになるなど、最有力の御家人の一人と言う立場に変わりはありませんでした。
しかし、鎌倉幕府の実権を握りつつあった執権北条氏にとって、他の有力御家人たちと同様、和田義盛も排除すべき存在となっていきます。和田義盛とその一族を滅ぼした北条義時を中心とした北条氏は、侍所別当の役職も、義盛義盛に味方した者の所領であった六浦周辺や山ノ内(現在の北鎌倉駅周辺から大船方面にかけての、鎌倉の北の玄関口)の所領も手に入れ、執権体制をより強固なものとしました。

和田塚(和田義盛と一族の墓)

その和田合戦和田義盛の乱などと呼ばれる戦は、和田義盛の子・義直や甥の胤長らが、源頼家の遺児を将軍(鎌倉殿)に擁立して時の執権・北条義時を打倒する企てをたてている罪で捕まったことに端を発します。
和田義盛は鎌倉幕府第3代将軍(鎌倉殿)源実朝に許しを請うなど、事態の収拾に奔走しますが、北条義時の挑発にあい、形勢は悪くなる一方でした。決定的だったのは起請文まで交わしていた三浦義村が裏切り、北条義時和田義盛挙兵の知らせを告げたことでした。
後に引けなくなった和田義盛和田一族とその縁者たちは、由比ヶ浜和田義盛邸のあった若宮大路で戦いますが、三浦義村を含む有力御家人の多くが味方した幕府方には勝てず、安房国(房総半島)に逃れた義盛の三男・朝比奈義秀ら一部を除いて、討死してしまいます。
このとき、和田義盛やその一族が葬られた場所と伝わるのが、最期の地にほど近い、江ノ電「和田塚駅」近くに残る和田塚です。

●住所
鎌倉市由比ガ浜2丁目

●駐車場
なし

●公共交通機関
江ノ電「和田塚駅」より、徒歩約1分

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和田義盛の碑

江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記」では、和田義盛の本拠地であった三浦の和田の地にも和田義盛の墓と伝わる義盛塚の存在が紹介されていますが、今ではその正確な場所も分からなくなってしまっています。おそらく、現在の神明白旗神社安楽寺跡の辺りではないかと推定されます。
現在、三浦の和田八雲神社の境内に建つ「和田義盛の碑」は、鎌倉で非業の最期を遂げた義盛をしのんで、1921年(大正10年)に建立されたものです。
この碑に書かれた『和田義盛旧里碑』という文字は、三浦一族の末裔とされる紀州藩家老の子孫・三浦英太郎男爵の筆によるものです。三浦英太郎男爵は、和田義盛和田氏の直系の子孫ではなく、宝治合戦三浦氏宗家(本家)が滅んだ後に三浦氏相模三浦氏)を再興した、佐原氏の子孫にあたります。いわば、遠い過去の遠い親戚にあたる和田義盛の記念碑建立に関わったということは、相当な思い入れがあってのことだったと想像できます。

●住所
三浦市初声町和田

●参拝料
無料(志納)

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス「横須賀駅」行き、「横須賀市民病院」行き、「荒崎」行きなどの長井方面行きにて「和田」下車、徒歩約1分
※「ソレイユの丘」行きの直行バス、急行バスは、「和田」バス停には停車しません。

和田義盛の碑(撮影日:2022.02.25)
和田義盛の碑

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番外編:和田義盛と和田町

和田義盛ゆかりの地は、三浦半島エリア以外にも多く伝えられています。その代表的な場所が、現在の横浜市保土ヶ谷区にある和田町(かつての橘樹郡和田村)です。
和田町には、和田義盛ゆかりの真福寺(和田不動尊)・和田稲荷があります。
和田義盛平家討伐の戦勝祈願のため、この場所に祀られていた十一面観音菩薩の参拝に訪れたところ、稲荷を信仰すれば願いが叶うというお告げがあり、稲荷社を建てたことが和田稲荷のはじまりと伝えられています。その和田稲荷を管理する真福寺(和田不動尊)については諸説ありますが、和田義盛が建立したという言い伝えがあります。
和田町の町名は、この真福寺(和田不動尊)・和田稲荷に由来します。

●住所
横浜市保土ケ谷区和田2-8-3

●参拝料
無料(志納)

●駐車場
あり

●公共交通機関
相鉄線「和田町駅」より徒歩約10分

真福寺・和田不動尊(横浜市保土ヶ谷区)(撮影日:2013.04.13)
真福寺・和田不動尊(横浜市保土ヶ谷区)

和田義盛の本拠地・和田の里、鎌倉幕府初代侍所別当、和田義盛と薬師信仰・阿弥陀信仰

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