鎌倉幕府第2代執権・北条義時の嫡男(長男)である北条泰時は、1224年(貞応3年)に父・義時が急死したことを受けて、第3代執権に就任しました。
しかし、義時の死後しばらくは、義時の姉である北条政子や、源頼朝の時代以来の幕府の重鎮である大江広元らの影響力が強く、「名執権」と称されることもある泰時独自の手腕が発揮されるようになるのは、大江広元と北条政子が相次いで亡くなる1225年(嘉禄元年)以降のことであったと考えられています。
「尼将軍」として鎌倉殿を代行していた北条政子が亡くなると、時の執権・北条泰時は、鎌倉幕府第4代将軍となった若き藤原頼経を鎌倉殿として尊重しつつ、幕府の実務をつかさどる体制を整備します。11人の御家人からなる「評定衆」を設置して、自らを支える「連署」としては叔父の北条時房を任命しました。執権である泰時はその長となり、連署と評定衆を加えた13人の合議制で幕府の運営が行われていくことになります。
現在までに伝わる北条泰時の大きな仕事もこれ以降のものばかりで、泰時ゆかりの地もまた同様にこの時代に生まれています。鎌倉七口周辺(=鎌倉周辺部)に多く見られることも特徴で、視野の広さもうかがえます。
また、北条泰時は、歴代の執権北条氏の中ではじめて、鎌倉に多くの寺院を建立するようになった人物でもあります。鎌倉大仏の造営がはじまったのも泰時が執権の頃ですが、間接的に援助はしていたものの、深く関わっていた記録は残っていません。
北条泰時の父・義時と祖父・時政は、北条氏の執権体制を確立して、事実上、鎌倉幕府の実権を握ることに成功しましたが、度重なる御家人の粛清や源氏将軍の滅亡など、混迷を極めた時代でした。
北条泰時の実績としては武家政権のための法令「御成敗式目」の制定が有名ですが、政局や戦乱で名を残すというよりも、幕府や北条一門繁栄の基礎を整えつつ、人々の暮らしを豊かにする政策を多く実現したことが知られています。
マップは、スマートフォンやタブレットでは二本指で操作できます。
INDEX
材木座海岸に築かれた鎌倉の内港 和賀江嶋
和賀江嶋(和賀江島)は日本に現存する最古の築港の遺跡で、国の史跡に指定されています。材木座海岸の南端(小坪寄り)の相模湾上に築かれた人工の港で、現在でも干潮時には無数の玉石からなる港の跡を見ることができます。
鎌倉の前浜である由比ヶ浜海岸と材木座海岸は、現在でも海水浴場に指定されていることからも分かるように、遠浅の海岸です。そのため、小さな船しか着けることができず、事故も多発していました。これでは、陸上の交通が発達していない中世においては不便であったため、往阿弥陀仏という僧が北条泰時に願い出て、1232年(貞永元年)に1ヶ月ほどで材木座海岸の沖合に人工島を築造して完成させたと言われています。
しかし、和賀江嶋が完成しても大量の大型船が着ける港というわけではなかったため、その後、鎌倉幕府は東京湾側に位置する六浦(現在の横浜市金沢区)を貿易港として整備していくことになります。
それでも鎌倉中心部に近い和賀江嶋の重要性が失われることはなく、「六浦」は鎌倉の外港、「和賀江嶋」が鎌倉の内港という位置づけで、江戸時代まで港として利用されました。
●住所
鎌倉市材木座6丁目、逗子市小坪5丁目
●駐車場
あり(材木座海岸周辺や逗子マリーナ周辺に有料駐車場あり)
●公共交通機関
鎌倉側の岸から望むことができる材木座海岸の南端まで
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「小坪経由逗子駅」行き、「小坪」行きで『光明寺』または『飯島』下車徒歩すぐ
または、JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より徒歩約30分
逗子側の岸から望むことができる小坪飯島公園(逗子マリーナの隣り)まで
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「小坪経由逗子駅」行き、「小坪」行き、
または、JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅(東口)」、京急逗子線「逗子・葉山駅(北口)」より、京急バス「小坪経由鎌倉駅」行きで、
『飯島』下車徒歩約5分(小坪海岸トンネル入口右横のわき道経由)
鎌倉と外港の六浦とを結ぶ 朝夷奈切通 の開削
相模湾に面した鎌倉中心部と東京湾に面した六浦との行き来は、三浦半島を横断する必要があり、峠道を越える必要がありました。この道を通りやすいように整備したのが、北条泰時でした。1240年(仁治元年)に自ら視察して、翌年には工事がはじまりました。
現在、朝夷奈切通(朝比奈切通し)として残る古道がその道であると考えられていて、1956年(昭和31年)に県道204号金沢鎌倉線が完成するまで、改修をくり返しながら、幹線道路として使用されました。鎌倉七口の一つに数えられている朝夷奈切通は、和賀江嶋と同様、国の史跡に指定されています。
北条泰時は、幕府の重要な貿易港となった六浦に弟の実泰を配しました。称名寺や金沢文庫を建立するなど、実泰の子・実時からは三代に渡って、朝夷奈切通の外側に、金沢北条氏として独自の文化を築いていきました。
なお、朝夷奈切通には、和田義盛の三男・朝比奈(朝夷名)義秀が一夜にして切り開いたという伝説が残っています。切通の名前もこの伝説に由来します。北条泰時も幕府軍として戦った和田合戦で和田一族が滅びるまでは、六浦周辺は和田一族の影響力が強い場所であったと考えられています。
●住所
横浜市金沢区朝比奈町字峠坂1番地、鎌倉市十二所
●駐車場
なし
●公共交通機関
鎌倉駅からバス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「鎌倉霊園正面前太刀洗」行き、「金沢八景駅」行きで『十二所神社』下車徒歩約20分
金沢八景駅からバス利用の場合
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より京急バス「鎌倉駅」行き、または神奈川中央交通バス「大船駅」行き、「上郷ネオポリス」行きで、『朝比奈』下車徒歩約10分
徒歩の場合
京急逗子線「六浦駅」より徒歩約40分
または、JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より徒歩約1時間5分
周辺の見どころ
梶原太刀洗
上総介塔(上総広常の墓)
北条泰時によって整備された横浜の秘境 朝比奈熊野神社
北条泰時は、朝夷奈切通を開墾するにあたって、切通の近くに鎮座していた神社に社殿を建立しました。この朝比奈熊野神社は、源頼朝が鎌倉幕府の艮方(鬼門)を守護するために、熊野三社を勧請したことがはじまりと伝えられています。
現在の社殿は、本殿は1978年(昭和53年)に、拝殿は平成御大典記念事業として、新造されたものです。
朝比奈熊野神社は、横浜市にありながら、杉などの大木に囲まれた、山深い秘境のような雰囲気を味わえる場所です。朝夷奈切通を訪れたら、ぜひ、立ち寄りたい場所です。
朝比奈熊野神社へは、朝夷奈切通の頂上付近(横浜市側)から行くメインルートの他、京急逗子線六浦駅から千光寺経由で行くルートや、十二所果樹園を経由するルートなど複数の行き方があり、ハイキングコースとしてもオススメです。
●住所
横浜市金沢区朝比奈町578
●駐車場
なし
●公共交通機関
金沢八景駅からバス利用の場合
京急線・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」より京急バス「鎌倉駅」行き、または神奈川中央交通バス「大船駅」行き、「上郷ネオポリス」行きで、『朝比奈』下車徒歩約20分
鎌倉駅からバス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「鎌倉霊園正面前太刀洗」行き、「金沢八景駅」行きで『十二所神社』下車徒歩約25分
六浦駅から徒歩の場合
京急逗子線「六浦駅」より、千光寺経由で、徒歩約1時間
周辺の見どころ
十二所果樹園
鎌倉の北の玄関口 巨福呂坂切通 の開削
北条泰時はまた、鎌倉の北の玄関口である山ノ内(現在のJR北鎌倉駅周辺)と鎌倉中心部を結ぶ通りも整備しています。これは、いずれも鎌倉七口に数えられている巨福呂坂切通または亀ヶ谷坂切通とみられています。
巨福呂坂切通は、鎌倉七口の中で唯一、通り抜けができない切通しです。鎌倉中心部側(南側)に道筋が残っていますが、途中で私有地となり、峠道は喪失しています。現在は、かつての切通しの東側には、ちょうど鶴岡八幡宮と建長寺の間に、新道として巨福呂坂洞門が造られています。
なお、山ノ内周辺も和田合戦の勝利で北条氏が手に入れた土地で、人々の交通の便を図るとともに、朝夷奈切通と同様に、北条一門の鎌倉周辺部への進出に欠かせない道でもあったと考えられます。
●住所
鎌倉市雪ノ下
●駐車場
なし
●公共交通機関
南側の坂道まで
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、徒歩約20分
または
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、江ノ電バス「大船駅」行き、「上大岡駅」行き、「本郷台駅」行きで『八幡宮裏』下車、徒歩約5分
北条泰時が鎌倉の西端に開いた 成就院
北条泰時の祖父で鎌倉幕府初代執権の北条時政と父で第2代執権の北条義時は、彼らの子孫である北条一門と比べて、鎌倉に寺院を築くことにそれほど積極的でなかったように見えます。源氏将軍に配慮していたのか、幕府の実権をめぐる権力闘争でそれどころではなかったのか、そもそも興味がなかったのか、いろいろと考えられますが、理由は一つではないのでしょう。
一方、北条泰時が建立した寺院は、鎌倉に3、4か所ほど知られています。その一つが、由比ヶ浜を望む高台に建つ、成就院です。現在は、恋愛成就などの縁結びのパワースポットとしても知られています。
成就院は、鎌倉七口の一つ、極楽寺坂切通に位置しているため、泰時の弟・北条重時が建立した極楽寺とともに、鎌倉を防衛するための拠点や関所としても機能していたのかもしれません。
そんな成就院も、鎌倉幕府が滅亡するきっかけになった、新田義貞の鎌倉攻めで焼失してしまい、別の場所に移りましたが、江戸時代に現在の場所に再建されました。
●住所
鎌倉市極楽寺1-1-5
●拝観料
無料(志納)
●駐車場
なし
●公共交通機関
江ノ電「極楽寺駅」より徒歩約3分
江ノ電「長谷駅」より徒歩約6分
周辺の見どころ
極楽寺坂切通
極楽寺
御霊神社(権五郎神社)
北条氏の菩提寺として建立された 東勝寺
鎌倉幕府滅亡時に、文字通り幕府軍の「最後の砦」となったのが、東勝寺です。新田義貞らに東勝寺に追い詰められた第14代執権・北条高時をはじめとした北条一門とその家臣ら870人余は、この場所で自害して、鎌倉時代は終焉しました。
東勝寺は、北条泰時が北条得宗家(本家)の屋敷の隣りに建立した北条氏の菩提寺で、泰時自身がそのようなことを意図していたのかまでは分かりませんが、北条氏の防衛上の拠点でもあったと考えられています。
東勝寺跡には、建造物などの目立った遺構は残されていませんが、鎌倉幕府滅亡後に、北条泰時も暮らしたであろう北条得宗家の屋敷跡に後醍醐天皇によって開かれた宝戒寺が残っています。
なお、この他に北条泰時は、現存しない寺院として、父・北条義時の供養のために釈迦堂を建立しています。現在の釈迦堂切通(通行止め)の辺りにあったとされていますが、詳しいことは分かっていません。
●住所
鎌倉市小町3丁目
●料金
無料(東勝寺跡の内部は、通常非公開)
●駐車場
なし
●公共交通機関
JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より徒歩約15分
または、JR横須賀線・湘南新宿ライン、江ノ電「鎌倉駅(東口)」より、京急バス「鎌倉霊園正面前太刀洗」行き、「金沢八景駅」行き、「ハイランド」行き、「鎌倉宮(大塔宮) 」行きで『大学前』下車徒歩約7分
周辺の見どころ
宝戒寺
自身が開いた 常楽寺 に残る 北条泰時の墓
大船にある常楽寺は、北条泰時が、妻の母の供養のために建立した粟船御堂がはじまりと伝わる寺院です。泰時の死後、泰時の法名・常楽寺殿をとって、寺の名前になったと言われています。
北条泰時の墓は、常楽寺の本堂の裏手に建っています。
常楽寺の裏山の中腹には、北条泰時の娘の墓(源頼朝の娘で、木曽義高の許嫁であった、大姫の墓という説もあり)と伝わる祠も伝わっています。この娘と同一人物かは分かりませんが、泰時の娘の一人は、三浦義村の跡を継ぐ、泰時が烏帽子親の三浦泰村に嫁いでいますが、泰時より早く、若くして病没しています。
また、北条泰時は、元服したときに、源頼朝の命によって、三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、後に三浦義澄の子である三浦義村の娘・矢部禅尼を正室に迎えました。しかし、泰時と矢部禅尼は離縁することになるため、「妻の母の供養のために建立」という常楽寺の由緒にある「妻」が矢部禅尼のことなのか後妻や側室のことであるのか、詳しいことは分かっていません。
このように、北条氏と三浦氏との関係は、少なくとも表向きは、北条泰時の時代までは蜜月関係にありました。
北条泰時が死没するのを待つように、両家は決別することになり、北条氏は宝治合戦で三浦氏を滅ぼすことになります。これにより、鎌倉幕府の権力は事実上北条一門一強となり、中央も地方も、要職の多くを独占していくことになります。御家人は没落し、鎌倉殿を支える評定衆も形がい化して、1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡するまで、北条一門による専制政治が続いていくことになります。
●住所
鎌倉市大船5-8-29
●拝観料
無料(志納)
●駐車場
なし
●公共交通機関
大船駅から
JR各線・湘南モノレール「大船駅(東口)」より、徒歩約15分
または
江ノ電バス「鎌倉湖畔循環(行政センター経由)」行き、「地蔵前」行き、「鎌倉駅」行きで、『大船住宅前』下車徒歩約3分
北鎌倉駅から
JR横須賀線・湘南新宿ライン「北鎌倉駅」より、徒歩約20分
または
江ノ電バス「大船駅」行き、「上大岡駅」行きで、『常楽寺』下車徒歩約3分
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